Paul Templeピサック救援活動ブログ(日本語版)

2010年6月17日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.4


バラリオと僕は「コリコチャ湖」を訪れるために、村の傍らの山道を登っていった。いわゆる今回の聖なる谷に大洪水をもたらした元凶と噂される湖のことだ。といっても湖に罪をかぶせる必要は無い。それよりも更に高い場所に位置するランラキックロ(Ranrakiccllo)湖が決壊し、クエンコ村よりも上にある泥で固めただけの砂防ダムを破壊したのが、今回の泥流の主な原因だ。手作業で掘り進めた水路は、いとも簡単に増水し、コリコチャ湖になだれこむことは誰が見ても明白だったはずだ。水路が長期間にわたり清掃されていなかったことが、今回の更なる悲劇を生んだ。

湖は静けさを取り戻し、凛とした美しさを放っている。背景には残雪をたたえた山々と牧草地、牧草地帯と、おびただしい数のアンデスの高山植物がが湖を取り囲んでいる。ひんやりとした風が吹き、陰鬱な空が広がる。大きな猛禽類が飛び立った。赤茶の鷲が斜面の輪郭をなぞるように飛んでいる。 「アルカマリ」という白と黒の鷲は、中空で弧を描いている。

















バラリオはこの村の手前で、パタバンバの耕作地である草原地帯が途絶えると教えてくれた。この土地は農作地としては収穫の後に2年間ほどの休耕期間が設けられている。しかしこのあたりでは、やや色彩を失った草原が広がり、クエンコ村の耕作対象地ではあるものの、じゃがいもしか育たない。斜面に拡がる土地も一様に休耕期間のようだ。肥沃さを取り戻すにはなんと6年間もかかるという。

あたりを囲む山の斜面はじゃがいも耕作地として、7年周期で分割されており、チャキタクラ(Chaquitaclla)と呼ばれる伝統的な鍬(くわ)を使用して、ポテトの民が手で耕すのだ。
























クエンコ村に歩いて戻り、村の経済状態に関して把握しようと試みた。バラリオは「貨幣」というものをよくわかっていない、パタバンバまでじゃがいもの袋をかついで運び、カブと交換する、あるいはじゃがいもを売って、砂糖や衣服を買い求めるのだ。

村では石材を利用することもある。石材はあたりで潤沢に横たわっており、地元の石工たちに好んで用いられる品質を有するからだ。しかしカカコーリョ村などと比較すると、あまりにも遠い場所にあるため、商品価値はあまり期待できない。

村を通って、水路沿いにある小さな集落を尋ねる。殆どの家ではじゃがいもの以外では、クイ(豚)や乳牛のためのパスト(鮮やかな緑の牧草)を育て、アッバス(大豆の一種)と、アブラナ種(菜の花の一種)を育てている。

ポテトの民は遠くからはおおむね大丈夫そうに見えるが、実際に近づいて確認してみると、黄色い葉や乾燥した茎など様々な兆候が露呈している。ピサックなどの農家と異なり、ポテトの民は30ソルほど出せば購入できるじゃがいもの茎の腐敗を防止するための殺菌剤を買うことができない。バラリオはもっと大規模な農地に適したじゃがいもは、大きな根茎を実らせるが、ここでは、アンデス特有のモラヤ(白)とチュンヨ(黒)の種、比較的こぶりな根茎を実らせるものが耕作に適しているそうだ。高山での6月と7月の零度を下回る気候で、これらのじゃがいもは天然のフリーズドライ保存される。.
















村に戻ると、我々が提供した配給食糧や古着を、村民たちはたいへん喜んでくれた。子供たちへの学用品をまた持参する機会はこの先あるだろうか。

もちろんだ。僕らは必ずここに戻ってくる。そしてサントゥーサの夫に、もう少し「とある実験的な試み」に関して話がしたい。彼は今ウルバンバにいて、週単位で日雇いの仕事に来ることもある。

この地を去る前に、サントゥーサの台所で撮影する許可を得た。ここは女性の縄張りでもあるから、若干デリカシーが必要だ。でも8人の家族が暮らすというこの家で、ほんの一瞬のスマイルを見せてくれればそれでいい。 戸棚にあるのは0.5キロの塩、そして同じくらいの小麦粉。じゃがいもは家の裏の日陰で保存されているが、想像するにほんのわずかな量に違いない。
















シワ村までは到達することができなかった。道の途上の最後の村であり、まだ村沿いに水路が流れている。来週に訪問してみようと思う。

まだカニワの種をどこで入手したらいいか、見当がついていない。クスコでは入手できないそうだ。アルティプラーノ(Altiplano)のプノ(Puno)では確実に入手できるようだ。シクアニ・・・も。種植えは8月の予定だ。

写真はチャカカッタ山からピサックを見下ろす眺め。ちょうど左側に僕の自宅がある。リンリ山(Apu Linli)では、たくさんの土砂災害の爪あとが見られる。

クエンコ村:ポテトの民 vol.3



僕らはパタバンバへドライブを続けた。パッチワークのような鮮やかな緑の草原がこの地域を取り囲んでいて、見たところ比較的豊かな土地だ。大洪水の被害からも難を逃れている。ここパタバンバはクエンコ(Q'enko)からはたった5km離れているだけなのに、標高的な適合性においても、キヌアの栽培に適している。インカでは収穫期の最初の種を母なる穀物(chisiya mama)と呼び、壮麗な式典の儀式において黄金の鍬(くわ)で種を植えるのだ。

ここパタバンバでは目を奪う虹のような色彩とともに、収穫が近いことを知らせている。これは大規模農場形式では決して見ることのできない美しさなのだ。半自然農法に近いからこそ、作物はそれぞれのペースで熟していく。農耕機械での収穫には不向きな作物なのだ。

クエンコは(その豊かなパタバンバから)たった5kmしか離れていないのに、何故キヌアが育たないのか? 科学的な調査を実施したわけではないのだが、標高が高く、収穫時に機械を併用でき、不毛な土地でも育つ作物がここでは必要だ。このテーマに関してはもう少し研究する必要がある。これに関して、提案や、意見、関連ウェブサイトのリンク、ヒントなどあったらどんどん僕に寄せて頂きたい。このような提案は大歓迎だ。



















ようやくクエンコ村に到着した。標高3,800m。バラリオと2人で、すでに息が苦しくなっていることからもうなずける。道端で、この村との連絡窓口を担ってくれているバラリオの姉妹、サントゥーサ・チュアッカとサンタ・マリアの5人の子供たちのうち、3人の若い紳士淑女に遭遇した。そして次にバラリオが「僕にとっては2番目のお母さんだよ」という女性を紹介してくれた。この土地に生まれ育った彼は、5歳で生みの母親と死別しているのだ。それ以降クオヤにこの叔母と移り住むことになったのだ。生まれ育ったこの土地に帰ってくるのは、彼にとっても3年半ぶりのこと・・・。それくらいの時間を隔てた今である。今回の訪問はどちらかと言えばさらっとした兄弟や姉妹たちとの再会となった。

山間部に住む民の多くは、あまり感情を表に出さない。日々生き抜くのが最優先の彼らにとっては、感情的なやり取りは二の次なのだ。配給物資を卸し、被害状況の調査を行う。「被害」というに十分な程度の倒壊した家屋を十分確認することができ、いくつか写真撮影も行った。日干し煉瓦に空いた穴から、居間に小川のような状態で水が流れている家屋がある。ある人々に話しも聞いたし、女性たちや、畑にいた男性たちからも、聞いたことのあるような話が出てくる。じゃがいも作物への壊滅的影響や、「食糧が必要です」というフレーズは、もはや「合唱」のように鳴り響いている。

2008年は国連では「国際イモ年」が実施されており、世界各国から華々しいセレブのシェフたちが、リマで料理の腕を競った。もちろん、ここクエンコでは、その味の一部を知る由も無い。

























これは彼らにとってのいつもの昼食。朝も夕飯も変わることの無い、クエンコスタイルのふかしたジャガイモだ。

救援物資を配給したことへ、彼らは感謝を表してくれた。

「僕だけからのものでは無いんです。この星の異なる国々のたくさんの友人たち。(最近では友人のそのまた友人たち)が、僕を信用してくれて、寄付してくださったんです。寄付していただいた$20は、ここでは$100の価値となります。決して皆さんにお会いした訳でも無いのに、心からの善意を寄せてくれているんです。」そして続けた、「カナダや日本、米国やヨーロッパ、南アフリカやオーストラリア、そしてペルー国内からも・・・これらまったく無名の人々による支援なんですよ。ある方々は、この地を訪れた方々。そしてまだあなた方に会ってもいないけれど、あなた方の家族や親戚の方々の生き様に触れ、(僕も同じだけれど)その気高い精神性と、忍耐強さ、そして寛容さに心を動かされたんです」

アンデスの村々を歩いてみれば、たとえ豊作の年であったとしても人々が相対的に栄養不足状態であることがわかる。その彼らが今直面しているのは、本当に深刻な食糧難なのだ。にもかかわらず、訪問客を必死でもてなそうとしている・・・。人類は今、何が本当に優先されるべきなのかを、改めて問い直す時期に来ているのではないだろうか。

2010年6月6日日曜日

Paul Temple氏からの日本の友人の皆様へ part 2

週末に第3回目の送金をペルーのPaul Temple氏へ実施したばかりでした。やはりホームページというのは不思議なもので、日本各地様々な場所から、それぞれの方々がそれぞれの想いを胸に、参加して頂いていることがひしひしと伝わってくるものでした。

早速Paul Templeさんから以下お便りを頂きました。1人1人ができることは決して小さくはない。「大海の一滴」となることが、確かな喜びをもたらすことを、なにかこうまざまざと胸に伝えてくれる・・・そんなバイブレーションを文面からひしひしと感じることができます。

うれしいですね。

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親愛なる日本の友人のみなさまへ

当救援基金への先日の送金を心から感謝申し上げます。今日も晴天に恵まれ、僕はちょうどクスコから戻ってきたところです。というのもカーラさんとその娘さんのターニャ(彼女は生まれつき指がありません)に会うためでした。彼女が適切な治療を受ける必要があるかを確認する必要があったのです。ですから今回の日本の皆様からの送金は実にタイムリーでした。とても有効に使わせて頂くことができました。

日本の友人のみなさまもお変わりないことと思います。(先日ジョンンクレイグとSkypeで話をしたばかりです。)

皆様に喜びと祝福がありますように

ポール・テンプル

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(原文)

Hola all friends in Japan

many thanks for your latest donation to the Relief Fund.

It is sunny again today, and I have just returned from Cusco yesterday, when I met Carla and her one-year daughter Tanya, who has no fingers on one hand ... so we are going ahead to see if we can get her some medical treatment - and so your contribution from friends in Japan will be put to very good use.

I hope all the friends in Japan are well (I spoke with John Craig the other day over Skype).

Wishing you all much joy.
Blessings.
Paul

2010年6月3日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.2

ラロと僕はよく「救援物資の公平な配給方法」について議論をする。というのも、盗人たちが「村全体の利益のために・・・」という名目でたびたびこれら救援物資を掠め取るのを把握しているからだ。カカコーリョ村の村民たちもこの問題について指摘しており、一度代表者を罷免して、再選人した経緯があるからだ。

バラリオはよく、隣接するコロラヤン村について、政府またはNGOの援助を「うまく」引き寄せていることを話していた。ではどうしてカカコーリョ村は援助の申請をしないのだろうか?

「どう申請すればいいのか?どうやって手続きを行い、申請書を記入し、誰に相談すべきかを知らないからだ。」

では、どうしてコロラヤン村などの近隣の村々と協力して、その任に当たらないのだろうか?僕の理解する範囲から言わせてもらえばこうだ。それは彼らはつまりキックバック(リベート)を受け取っているということ。そのような腐敗した仕組みは第三世界ではある意味普遍的なものであるし、僕はそのような事象からなるべく阻害されないようにと心を配ってきた。僕が支援に携わろうとする動機は、このような仕組みを支えるためでは無い。僕の心眼に写る、目のくりくりした3歳の女の子は、自動車タイヤから作られたサンダルを履きながら泥だらけの道をふらふらと歩いていくのだ。

ラロは食糧配給に関する、「ペース」に関して強調していた。これから2-4ヶ月にわたり、天候と収穫物の状況に応じながら、最適配分する必要がある。そして話は彼自身の状況に関して、どう対処していくべきか・・・に移っていった。彼がこの救援活動を行い、自身の家庭生活を再建するなかで、僕は彼に最低限の夜露をしのぐ場所を、ここピサックで提供する用意があると申し出たのだった。

翌朝僕はバラリオを食糧物資の買出しのためにクスコへと派遣した。クオラオ(Qorao)で落ち合い、そこからケンコー(Q'enko)へは以下写真のカロラヤンのテント村を越えて、山間のジクザクな道を辿って約1時間ほどで到着する。 このテント村では、食糧配給を受けるために、半ば強制的に移住を余儀なくさせられた人もいるとの噂を聞いた。































山の尾根を越えると、1000mほど直下に「聖なる谷」の壮大な眺望が拡がってくる。タライの下流にあるリオ・ウィルカマユにまで広範囲でトウモロコシ耕地にダメージが拡がっているのが分かる。(この写真の直下に見えているのはクオヤ(Qoya)を見下ろしている。 これらは「カンペシーノ」と呼ばれる小規模農家の農作地帯では無い。「ハシエンダ」と呼ばれる大規模の農作地帯であり、95年の農業改革以来、地主を失った土地なのだ。

バラリオとはいつもこの高山地域における暮らしの質をどう向上させられるか絶えず議論を交わしている。彼は僕にとっての目であり耳である。この都会から離れた、比較的保守的で、ケチュア部族の伝統に準じて生活している彼らにとって、先住民たちはエキストラネロ(外国人たち)に対してはあまり心を開くことは無い。過去500年にわたり自らの祖先の地が、スペイン帝国の支配と蹂躙を受け、近年の部族長の政治的支配を経てきた彼らにとっては無理の無い話だ。

僕は今、この高山地域におけるキヌアとキウィチャの農耕の可能性に関して調査しているところだ。バラリオと2km先の谷の向こう側からやって来たタクシーの運転手は、地元のケチュア語で協議をし、バラリオがそれをスペイン語で伝えてくれる。この辺の気候は寒すぎる。干ばつと霜への耐性があるカニワはどうなのだろうか?など。

人々は明確な答えを持たない。でも本当はわかっているのだ。そして僕らはその答えをいかに彼らから導き出せるのかに、大変な興味を持っている。「いかにしてこの貧しいアンデスの仲間たちに、これらの土着のスーパー穀物を再導入する余地が無いものだろうか?」と。サアグと呼ばれるヒマラヤからもたらされた発育の良いマスタードの葉とか、僕の家庭菜園から採れた野菜の種もその可能性を秘めている。

既存の救援活動は今年1月の記録的雨量による水害被害に対する取り組みである。本当に緊急ですべては切実は必要に基づいた活動である。けれど長期的にはどのようにあるべきなんだろうか?これら先住民の民たちを、カニワ(Kaniwa)などの伝統的な古来の高山農作物を再導入することは、僕の植物学、園芸学、持続可能性、そして自己受粉可能な植物への関心などにも合致する。であれば、僕らが今回取り組んできた食糧支援、衣料支援などの救援活動はクエンコ村の住民たちの受容と協力体制に基づいて、長期的な視点での実験的な構想を実施することが可能になるだろう。これは大きなお役目だ。そして希望がある。

クエンコ村:ポテトの民 vol.1

2010年3月22日

クエンコ(Q’enko)は、チャカカッタ山の稜線上にあり、コリコチャレイクの真下に位置する、標高3,810mに存在する高地の村だ。現在63件の家屋に70世帯が在住している。丁度、農耕限界点の上限に位置しており、「カンペシーノ」(農民)たちはアンデス高地の牧草地帯で牧畜を営みながら、ポテト(じゃがいも)を育てている。この土地から彼らが生計を立てる唯一の方法だ。

クエンコは、ちょうど決壊したダムの一番直下に位置する村であり、泥水や巨石、砂利の混ざった鉄砲水の発生源となった場所でもあり、下流にある村々、コロラヤン(Kollorayan)村、カカコーリョ村、コチャワシ(Cochahuasi)村、ワンカレ(Huancalle)村などはその直撃を受け、チャカカッタ山の裾野にあるタライ村は、その鉄砲水で壊滅的な被害を受けたのだった。

ラロは僕たちが訪問する前にすでにこの地を訪れており、タライ村の市議会議員としても選任され、二人の娘さんがいる、村の皆に信頼される良き父親だ。村人たちの相談窓口としては最高の人物であろう。 僕のお気に入りのタクシー運転手は、ちょっとしたパートタイムの政治家になってしまったようだ。彼らの田畑から放し飼いの鶏の卵や、採れたてのトウモロコシ(チョコロ)などの収穫物を村人たちに分配しており、この緊急の状況における最前線で活躍してくれている。彼自身もこの鉄砲水で被災し、最近建築したばかりの新居や、父方の家系の親戚たちの家々は、他の80%の世帯同様倒壊してしまったのだ。

僕が今ここでこのブログを書いて座っている席から眺めることのできる、「コレジオ村」ではテント村が飛躍的に増加している状況だ。彼らはもうそこに3週間以上暮らしている。僕もこの災害に直面して、正直どうして良いやら戸惑うことがあるけれども、そんなのは、彼らの苦悩に比べたらスモールポテト(小さなこと)だ。

ラロはようやく時間を取ってくれるようになり、状況も少し落ち着いてきたようだ。ここでの被災状況に関して、市議会の議員たちの視点でたっぷりと議論する時間を持つことができた。実際に政府から供出されている食糧に関する配給状況は決して十分なものとは言えず、また今週の後半にはカカコーリョ村の友人たちから聞いたことではあるが、4袋の米と、1袋の砂糖を受け取っただけだったそうだ。800人以上が住む村人たちへの配給と呼ぶにはあまりに、格好だけのものになっている。ましてや、遠隔地にあるクエンコ村などはご多分に漏れず、彼らは何一つ受け取っていない。クオヤの配給センターからは、物資はちゃんと出荷されているにもかかわらず・・・だ。

大統領のアラン・ガルシアが今日クスコに飛んだ。クスコに通じるハイワー途上にあるルクレからはヘリで被災地へと向う。結果、殆どのNGOからの援助の恩恵を受けている場所だ。ある友人たちは、そこで古着屋ビジネスを始め、活況を呈している。自分たちの「必要以上」のものを受け取っていることは間違いない。バラテオにある市場でエルモーレが古着を仕入れてきており、それらをここクエンコ村に届ける予定なのだが、その際の古着屋の訪問者たちが口々に話していた。

ガルシア大統領は、農耕の先住民たちが済む村々ではかなりの支持率がある。ペルーのGoggleのニュースでは、ペルー通貨であるソルを国際市場に統合する準備として、ペルーでの安価な労働力を背景に、ペルーの貴重な鉱物資源を多くの海外資本の資源開発業者へと売り渡そうとしている。ケチュアの民への畏敬の念を持つこともなく、資源開発業者たちは認可を受け次第、掘削を開始し、この土地の聖なる水を、採取後の廃石を洗浄するのに用いるのだ。

ラロもガルシアがヘリから実際に降りて視察したのかどうかは知らない(農民たちのデモ運動によって昨年は訪問がキャンセルされた経緯がある)そうだが、65億円相当を災害復興支援の費用として緊急拠出することになったそうだ。
















ラロは「付近の村々どこにおいても、物資は行き渡っていない。カカコーリョ村では事実、4袋の配給しか受けていない。」と言った。これら多くの基金はインフラ整備にまわされることは間違い無い。国道、ピサックの橋の修復など・・・。ありがとう・・・と言っておくべきか・・・。

そして何が起こることを期待しているのか?そうだ。バスがまたたくさんの観光客とともにこの土地を訪れることだろう。僕も協力して、カカコーリョ村の採石所から、大きな岩でも運んでこようか?