Paul Templeピサック救援活動ブログ(日本語版)

2010年8月30日月曜日

Valle Sagrado救援活動



クエンコ診療所
2010年8月28日

もう最後にブログを更新してからどれくらいの時間が経ったのだろう・・・。乾季はすでに十分すぎるほど安定しているし、Apu Lini(リニ山)を背景にした上の写真で見ると、僕の家は真ん中から左手の木々の間にある。ピサックのはずれに位置し、プルマクルコ区域の農作地帯からほど近い場所である。

6月の後半に品質的にも量的にも例年に比べて見劣りはするものの、ようやく作物を収穫することができたこともあり、食糧物資の配給を一旦停止することになった。従って私たちが実施した支援活動の殆どは村々の住民に対して建築資材、及び工具の提供によって占められることとなった。僕も例外にもれず、家の手入れとガーデニングの整備に余念が無い。9月と10月頃に春の種撒きが行われる頃には、再度食糧配給に対しての検討を行う予定だ。

7月の終わり頃には、ペルーでのVISAを更新するために、24時間だけボリビアを訪れた。

クスコからリマへ飛んだ2日後、プカルパ(Pucallpa)経由でコンタマナ(Contamana)と呼ばれる小さな平原へと向う。Benjamin Mahuaというシビボの祈祷師、他3人の弟子たちとともに、聖なる植物療法に関する打ち合わせを行うためだ。写真は飛行機から撮影した、ウカヤリ(Ucayali)川。



僕らが滞在したのは、2つの河川の流れの合流するポイントだ。一つは冷水が。一つは天然の温泉。どちらか好きな温度の場所に滞在することができる。園の管理団体が建設したモロカと呼ばれる場所で、夜の聖なる儀式を執り行うのが目的だ。コンゴウインコの群れが頭上をかすめて飛んでいくのを見ながら、コルパと呼ばれる場所を訪れる。粘土を舐めることで必要な栄養を摂取するのだ。大きな青いモルフォと呼ばれる蝶が毎朝羽ばたいていくのが見れる。


サウナの上には蒸気通気口が立っている。この地点ではもう川は熱すぎて入ることができない。帰りの際に、ペルーでの居住権を得るための必要な手続きを行うために、リマに数日間滞在した。



ピサックへ戻る途中、作業員たちはすでに土嚢の積み上げと、テラスの作成を完了していた。



ベンジャミンたちが到着して、聖なる植物のワークを継続して行うことができるように、主に果物と花を植栽している。



8月終盤になると、春の種植えに向けてパタパタと呼ばれる畑でうねを作るために、牛のトラクターが大活躍!僕もたくさんの種類の野菜の種を植えるんだ。



先週は、聖なる植物の儀式の合間に、クエンコ村を訪れることができた。古着の提供があたたかな感謝とともに受け取られた。じゃがいもの収穫は、今年は既に実施済みである。塊茎が小さいものはフリーズドライにされた。ホワイトモラヤと呼ばれるもの、これらは2週間ほど水に浸されたものであり、写真の手前のタンクで天然冷凍状態にて貯蔵されている。



僕らが支援しているクエンコ診療所の建設の様子を見に行った。7月には100袋ものセメントを供給した。基礎工事が終了した模様。政府関係者との調整では、村がきちんとした建物を建設するならば、診療ワーカーやスタッフを提供しようという取り決めがなされた。



今週作成された、日干し煉瓦。地方自治体のメンバーにも会うことができた。必要に応じて木材と梁を提供してくれるとのこと。9月5日の創立記念日にお招きにあずかる。計画も承認され、診療ワーカーも9月1日から稼動を開始する。建設が完了する前からでもだ。

先月は村ではスペインから団体が訪れて、医療サービス運営のための基金をどう組織するかが議論された。彼らが山を降りる途中に、マイクロバスが不慮の事故に遭遇し、4人が死亡。5人が重軽傷を負った。ゆえに基金の話は無くなった。事故現場では、小さな十字架が捧げられている。以前にも話したように、僕は地方自治体メンバーに、この診療所の建設費用の一部を負担することを再確認した。


村を離れる前に、コリコチャ湖へと歩いた。渡り鳥たちが通り過ぎ、ラマとアルパカが乾燥した平原で放牧されている。今年の1月に大きな被害を引き起こした元凶とされる修理が必要な運河は、清掃と修復が完了していた。



「救援基金」は紆余曲折を経て、当初予想していたよりもはるかに長期間に及ぶ取り組みとなった。しかし、彼らの笑顔を観ているだけで、何故このような行為がなされたのか、その原点に立ち戻ることができるような気がする。

9月と10月に種植えの季節が始まれば、僕が考案していた、キヌア、カニフアといったスーパーフードの作物を育てる試みも開始される。種植えが終わる頃にまた、食糧配給に関する検討を再開する予定だ。




最後に一言:当初見積もっていた目標金額である12,000ドルから15,000ドルもの基金が達成されました。これまでにUS$15,526が寄せられ、これを受け基金窓口の表記などは(僕のウェブサイト上のものは)既に削除されています。既に数人の方々が後期においても、寄付を続けたいとの意向を示してくれ、どのような方法で送金された基金でも、僕らは常に最も過疎化が進み、貧困の度合いの高い地域において、直接村の住民たちの手に渡るよう、最善の用途を模索してきました。

この地を訪れるどのような訪問者も、「古着」の提供はいつでも大歓迎なのです。子供サイズ、大人のSサイズが一番役に立つでしょう。今日までに私たちは既にUS$7556.29を使用しました。8000ドル近くがまだ残っており、主にクエンコ村の診療所の建設に使用されたり、カカコーリョ村の家々の建設に役立てられます。また雨季のあいだ、地域住民たちが必要十分な食料確保するために用いられていきます。

もし(監査目的などで)使用状況などの詳細記録をご覧になりたい場合は、ご連絡ください。

この救援活動を支えてくださったすべての方々に、そして継続的にサポートしてくださる方々へ心から感謝をお伝えしたいと思います。

この試みは継続的に、私個人にとっても大きな学びの場であり、このペルーの地において、文化的な「つながり」が次々と展開していくものとなりました。このプログラムが継続される間は、その様子を少しでも定期的にお伝えする努力を続けていきたいと思います。しかし、3年間に及ぶ自宅建設費用の返済、ペルー移住のための関係機関における公的手続き、ブロッコリの種植え、夜間7-8時間に及ぶ私のシャーマンの祈祷師とのセッションの合い間を見つける必要があります。叡智に満ちた教えの数々、そして彼のメディスンソングを録音すると、私のPCのディスクはすぐに容量一杯になってしまいます。

愛と感謝を込めて
ポールテンプル

2010年6月17日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.4


バラリオと僕は「コリコチャ湖」を訪れるために、村の傍らの山道を登っていった。いわゆる今回の聖なる谷に大洪水をもたらした元凶と噂される湖のことだ。といっても湖に罪をかぶせる必要は無い。それよりも更に高い場所に位置するランラキックロ(Ranrakiccllo)湖が決壊し、クエンコ村よりも上にある泥で固めただけの砂防ダムを破壊したのが、今回の泥流の主な原因だ。手作業で掘り進めた水路は、いとも簡単に増水し、コリコチャ湖になだれこむことは誰が見ても明白だったはずだ。水路が長期間にわたり清掃されていなかったことが、今回の更なる悲劇を生んだ。

湖は静けさを取り戻し、凛とした美しさを放っている。背景には残雪をたたえた山々と牧草地、牧草地帯と、おびただしい数のアンデスの高山植物がが湖を取り囲んでいる。ひんやりとした風が吹き、陰鬱な空が広がる。大きな猛禽類が飛び立った。赤茶の鷲が斜面の輪郭をなぞるように飛んでいる。 「アルカマリ」という白と黒の鷲は、中空で弧を描いている。

















バラリオはこの村の手前で、パタバンバの耕作地である草原地帯が途絶えると教えてくれた。この土地は農作地としては収穫の後に2年間ほどの休耕期間が設けられている。しかしこのあたりでは、やや色彩を失った草原が広がり、クエンコ村の耕作対象地ではあるものの、じゃがいもしか育たない。斜面に拡がる土地も一様に休耕期間のようだ。肥沃さを取り戻すにはなんと6年間もかかるという。

あたりを囲む山の斜面はじゃがいも耕作地として、7年周期で分割されており、チャキタクラ(Chaquitaclla)と呼ばれる伝統的な鍬(くわ)を使用して、ポテトの民が手で耕すのだ。
























クエンコ村に歩いて戻り、村の経済状態に関して把握しようと試みた。バラリオは「貨幣」というものをよくわかっていない、パタバンバまでじゃがいもの袋をかついで運び、カブと交換する、あるいはじゃがいもを売って、砂糖や衣服を買い求めるのだ。

村では石材を利用することもある。石材はあたりで潤沢に横たわっており、地元の石工たちに好んで用いられる品質を有するからだ。しかしカカコーリョ村などと比較すると、あまりにも遠い場所にあるため、商品価値はあまり期待できない。

村を通って、水路沿いにある小さな集落を尋ねる。殆どの家ではじゃがいもの以外では、クイ(豚)や乳牛のためのパスト(鮮やかな緑の牧草)を育て、アッバス(大豆の一種)と、アブラナ種(菜の花の一種)を育てている。

ポテトの民は遠くからはおおむね大丈夫そうに見えるが、実際に近づいて確認してみると、黄色い葉や乾燥した茎など様々な兆候が露呈している。ピサックなどの農家と異なり、ポテトの民は30ソルほど出せば購入できるじゃがいもの茎の腐敗を防止するための殺菌剤を買うことができない。バラリオはもっと大規模な農地に適したじゃがいもは、大きな根茎を実らせるが、ここでは、アンデス特有のモラヤ(白)とチュンヨ(黒)の種、比較的こぶりな根茎を実らせるものが耕作に適しているそうだ。高山での6月と7月の零度を下回る気候で、これらのじゃがいもは天然のフリーズドライ保存される。.
















村に戻ると、我々が提供した配給食糧や古着を、村民たちはたいへん喜んでくれた。子供たちへの学用品をまた持参する機会はこの先あるだろうか。

もちろんだ。僕らは必ずここに戻ってくる。そしてサントゥーサの夫に、もう少し「とある実験的な試み」に関して話がしたい。彼は今ウルバンバにいて、週単位で日雇いの仕事に来ることもある。

この地を去る前に、サントゥーサの台所で撮影する許可を得た。ここは女性の縄張りでもあるから、若干デリカシーが必要だ。でも8人の家族が暮らすというこの家で、ほんの一瞬のスマイルを見せてくれればそれでいい。 戸棚にあるのは0.5キロの塩、そして同じくらいの小麦粉。じゃがいもは家の裏の日陰で保存されているが、想像するにほんのわずかな量に違いない。
















シワ村までは到達することができなかった。道の途上の最後の村であり、まだ村沿いに水路が流れている。来週に訪問してみようと思う。

まだカニワの種をどこで入手したらいいか、見当がついていない。クスコでは入手できないそうだ。アルティプラーノ(Altiplano)のプノ(Puno)では確実に入手できるようだ。シクアニ・・・も。種植えは8月の予定だ。

写真はチャカカッタ山からピサックを見下ろす眺め。ちょうど左側に僕の自宅がある。リンリ山(Apu Linli)では、たくさんの土砂災害の爪あとが見られる。

クエンコ村:ポテトの民 vol.3



僕らはパタバンバへドライブを続けた。パッチワークのような鮮やかな緑の草原がこの地域を取り囲んでいて、見たところ比較的豊かな土地だ。大洪水の被害からも難を逃れている。ここパタバンバはクエンコ(Q'enko)からはたった5km離れているだけなのに、標高的な適合性においても、キヌアの栽培に適している。インカでは収穫期の最初の種を母なる穀物(chisiya mama)と呼び、壮麗な式典の儀式において黄金の鍬(くわ)で種を植えるのだ。

ここパタバンバでは目を奪う虹のような色彩とともに、収穫が近いことを知らせている。これは大規模農場形式では決して見ることのできない美しさなのだ。半自然農法に近いからこそ、作物はそれぞれのペースで熟していく。農耕機械での収穫には不向きな作物なのだ。

クエンコは(その豊かなパタバンバから)たった5kmしか離れていないのに、何故キヌアが育たないのか? 科学的な調査を実施したわけではないのだが、標高が高く、収穫時に機械を併用でき、不毛な土地でも育つ作物がここでは必要だ。このテーマに関してはもう少し研究する必要がある。これに関して、提案や、意見、関連ウェブサイトのリンク、ヒントなどあったらどんどん僕に寄せて頂きたい。このような提案は大歓迎だ。



















ようやくクエンコ村に到着した。標高3,800m。バラリオと2人で、すでに息が苦しくなっていることからもうなずける。道端で、この村との連絡窓口を担ってくれているバラリオの姉妹、サントゥーサ・チュアッカとサンタ・マリアの5人の子供たちのうち、3人の若い紳士淑女に遭遇した。そして次にバラリオが「僕にとっては2番目のお母さんだよ」という女性を紹介してくれた。この土地に生まれ育った彼は、5歳で生みの母親と死別しているのだ。それ以降クオヤにこの叔母と移り住むことになったのだ。生まれ育ったこの土地に帰ってくるのは、彼にとっても3年半ぶりのこと・・・。それくらいの時間を隔てた今である。今回の訪問はどちらかと言えばさらっとした兄弟や姉妹たちとの再会となった。

山間部に住む民の多くは、あまり感情を表に出さない。日々生き抜くのが最優先の彼らにとっては、感情的なやり取りは二の次なのだ。配給物資を卸し、被害状況の調査を行う。「被害」というに十分な程度の倒壊した家屋を十分確認することができ、いくつか写真撮影も行った。日干し煉瓦に空いた穴から、居間に小川のような状態で水が流れている家屋がある。ある人々に話しも聞いたし、女性たちや、畑にいた男性たちからも、聞いたことのあるような話が出てくる。じゃがいも作物への壊滅的影響や、「食糧が必要です」というフレーズは、もはや「合唱」のように鳴り響いている。

2008年は国連では「国際イモ年」が実施されており、世界各国から華々しいセレブのシェフたちが、リマで料理の腕を競った。もちろん、ここクエンコでは、その味の一部を知る由も無い。

























これは彼らにとってのいつもの昼食。朝も夕飯も変わることの無い、クエンコスタイルのふかしたジャガイモだ。

救援物資を配給したことへ、彼らは感謝を表してくれた。

「僕だけからのものでは無いんです。この星の異なる国々のたくさんの友人たち。(最近では友人のそのまた友人たち)が、僕を信用してくれて、寄付してくださったんです。寄付していただいた$20は、ここでは$100の価値となります。決して皆さんにお会いした訳でも無いのに、心からの善意を寄せてくれているんです。」そして続けた、「カナダや日本、米国やヨーロッパ、南アフリカやオーストラリア、そしてペルー国内からも・・・これらまったく無名の人々による支援なんですよ。ある方々は、この地を訪れた方々。そしてまだあなた方に会ってもいないけれど、あなた方の家族や親戚の方々の生き様に触れ、(僕も同じだけれど)その気高い精神性と、忍耐強さ、そして寛容さに心を動かされたんです」

アンデスの村々を歩いてみれば、たとえ豊作の年であったとしても人々が相対的に栄養不足状態であることがわかる。その彼らが今直面しているのは、本当に深刻な食糧難なのだ。にもかかわらず、訪問客を必死でもてなそうとしている・・・。人類は今、何が本当に優先されるべきなのかを、改めて問い直す時期に来ているのではないだろうか。

2010年6月6日日曜日

Paul Temple氏からの日本の友人の皆様へ part 2

週末に第3回目の送金をペルーのPaul Temple氏へ実施したばかりでした。やはりホームページというのは不思議なもので、日本各地様々な場所から、それぞれの方々がそれぞれの想いを胸に、参加して頂いていることがひしひしと伝わってくるものでした。

早速Paul Templeさんから以下お便りを頂きました。1人1人ができることは決して小さくはない。「大海の一滴」となることが、確かな喜びをもたらすことを、なにかこうまざまざと胸に伝えてくれる・・・そんなバイブレーションを文面からひしひしと感じることができます。

うれしいですね。

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親愛なる日本の友人のみなさまへ

当救援基金への先日の送金を心から感謝申し上げます。今日も晴天に恵まれ、僕はちょうどクスコから戻ってきたところです。というのもカーラさんとその娘さんのターニャ(彼女は生まれつき指がありません)に会うためでした。彼女が適切な治療を受ける必要があるかを確認する必要があったのです。ですから今回の日本の皆様からの送金は実にタイムリーでした。とても有効に使わせて頂くことができました。

日本の友人のみなさまもお変わりないことと思います。(先日ジョンンクレイグとSkypeで話をしたばかりです。)

皆様に喜びと祝福がありますように

ポール・テンプル

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(原文)

Hola all friends in Japan

many thanks for your latest donation to the Relief Fund.

It is sunny again today, and I have just returned from Cusco yesterday, when I met Carla and her one-year daughter Tanya, who has no fingers on one hand ... so we are going ahead to see if we can get her some medical treatment - and so your contribution from friends in Japan will be put to very good use.

I hope all the friends in Japan are well (I spoke with John Craig the other day over Skype).

Wishing you all much joy.
Blessings.
Paul

2010年6月3日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.2

ラロと僕はよく「救援物資の公平な配給方法」について議論をする。というのも、盗人たちが「村全体の利益のために・・・」という名目でたびたびこれら救援物資を掠め取るのを把握しているからだ。カカコーリョ村の村民たちもこの問題について指摘しており、一度代表者を罷免して、再選人した経緯があるからだ。

バラリオはよく、隣接するコロラヤン村について、政府またはNGOの援助を「うまく」引き寄せていることを話していた。ではどうしてカカコーリョ村は援助の申請をしないのだろうか?

「どう申請すればいいのか?どうやって手続きを行い、申請書を記入し、誰に相談すべきかを知らないからだ。」

では、どうしてコロラヤン村などの近隣の村々と協力して、その任に当たらないのだろうか?僕の理解する範囲から言わせてもらえばこうだ。それは彼らはつまりキックバック(リベート)を受け取っているということ。そのような腐敗した仕組みは第三世界ではある意味普遍的なものであるし、僕はそのような事象からなるべく阻害されないようにと心を配ってきた。僕が支援に携わろうとする動機は、このような仕組みを支えるためでは無い。僕の心眼に写る、目のくりくりした3歳の女の子は、自動車タイヤから作られたサンダルを履きながら泥だらけの道をふらふらと歩いていくのだ。

ラロは食糧配給に関する、「ペース」に関して強調していた。これから2-4ヶ月にわたり、天候と収穫物の状況に応じながら、最適配分する必要がある。そして話は彼自身の状況に関して、どう対処していくべきか・・・に移っていった。彼がこの救援活動を行い、自身の家庭生活を再建するなかで、僕は彼に最低限の夜露をしのぐ場所を、ここピサックで提供する用意があると申し出たのだった。

翌朝僕はバラリオを食糧物資の買出しのためにクスコへと派遣した。クオラオ(Qorao)で落ち合い、そこからケンコー(Q'enko)へは以下写真のカロラヤンのテント村を越えて、山間のジクザクな道を辿って約1時間ほどで到着する。 このテント村では、食糧配給を受けるために、半ば強制的に移住を余儀なくさせられた人もいるとの噂を聞いた。































山の尾根を越えると、1000mほど直下に「聖なる谷」の壮大な眺望が拡がってくる。タライの下流にあるリオ・ウィルカマユにまで広範囲でトウモロコシ耕地にダメージが拡がっているのが分かる。(この写真の直下に見えているのはクオヤ(Qoya)を見下ろしている。 これらは「カンペシーノ」と呼ばれる小規模農家の農作地帯では無い。「ハシエンダ」と呼ばれる大規模の農作地帯であり、95年の農業改革以来、地主を失った土地なのだ。

バラリオとはいつもこの高山地域における暮らしの質をどう向上させられるか絶えず議論を交わしている。彼は僕にとっての目であり耳である。この都会から離れた、比較的保守的で、ケチュア部族の伝統に準じて生活している彼らにとって、先住民たちはエキストラネロ(外国人たち)に対してはあまり心を開くことは無い。過去500年にわたり自らの祖先の地が、スペイン帝国の支配と蹂躙を受け、近年の部族長の政治的支配を経てきた彼らにとっては無理の無い話だ。

僕は今、この高山地域におけるキヌアとキウィチャの農耕の可能性に関して調査しているところだ。バラリオと2km先の谷の向こう側からやって来たタクシーの運転手は、地元のケチュア語で協議をし、バラリオがそれをスペイン語で伝えてくれる。この辺の気候は寒すぎる。干ばつと霜への耐性があるカニワはどうなのだろうか?など。

人々は明確な答えを持たない。でも本当はわかっているのだ。そして僕らはその答えをいかに彼らから導き出せるのかに、大変な興味を持っている。「いかにしてこの貧しいアンデスの仲間たちに、これらの土着のスーパー穀物を再導入する余地が無いものだろうか?」と。サアグと呼ばれるヒマラヤからもたらされた発育の良いマスタードの葉とか、僕の家庭菜園から採れた野菜の種もその可能性を秘めている。

既存の救援活動は今年1月の記録的雨量による水害被害に対する取り組みである。本当に緊急ですべては切実は必要に基づいた活動である。けれど長期的にはどのようにあるべきなんだろうか?これら先住民の民たちを、カニワ(Kaniwa)などの伝統的な古来の高山農作物を再導入することは、僕の植物学、園芸学、持続可能性、そして自己受粉可能な植物への関心などにも合致する。であれば、僕らが今回取り組んできた食糧支援、衣料支援などの救援活動はクエンコ村の住民たちの受容と協力体制に基づいて、長期的な視点での実験的な構想を実施することが可能になるだろう。これは大きなお役目だ。そして希望がある。

クエンコ村:ポテトの民 vol.1

2010年3月22日

クエンコ(Q’enko)は、チャカカッタ山の稜線上にあり、コリコチャレイクの真下に位置する、標高3,810mに存在する高地の村だ。現在63件の家屋に70世帯が在住している。丁度、農耕限界点の上限に位置しており、「カンペシーノ」(農民)たちはアンデス高地の牧草地帯で牧畜を営みながら、ポテト(じゃがいも)を育てている。この土地から彼らが生計を立てる唯一の方法だ。

クエンコは、ちょうど決壊したダムの一番直下に位置する村であり、泥水や巨石、砂利の混ざった鉄砲水の発生源となった場所でもあり、下流にある村々、コロラヤン(Kollorayan)村、カカコーリョ村、コチャワシ(Cochahuasi)村、ワンカレ(Huancalle)村などはその直撃を受け、チャカカッタ山の裾野にあるタライ村は、その鉄砲水で壊滅的な被害を受けたのだった。

ラロは僕たちが訪問する前にすでにこの地を訪れており、タライ村の市議会議員としても選任され、二人の娘さんがいる、村の皆に信頼される良き父親だ。村人たちの相談窓口としては最高の人物であろう。 僕のお気に入りのタクシー運転手は、ちょっとしたパートタイムの政治家になってしまったようだ。彼らの田畑から放し飼いの鶏の卵や、採れたてのトウモロコシ(チョコロ)などの収穫物を村人たちに分配しており、この緊急の状況における最前線で活躍してくれている。彼自身もこの鉄砲水で被災し、最近建築したばかりの新居や、父方の家系の親戚たちの家々は、他の80%の世帯同様倒壊してしまったのだ。

僕が今ここでこのブログを書いて座っている席から眺めることのできる、「コレジオ村」ではテント村が飛躍的に増加している状況だ。彼らはもうそこに3週間以上暮らしている。僕もこの災害に直面して、正直どうして良いやら戸惑うことがあるけれども、そんなのは、彼らの苦悩に比べたらスモールポテト(小さなこと)だ。

ラロはようやく時間を取ってくれるようになり、状況も少し落ち着いてきたようだ。ここでの被災状況に関して、市議会の議員たちの視点でたっぷりと議論する時間を持つことができた。実際に政府から供出されている食糧に関する配給状況は決して十分なものとは言えず、また今週の後半にはカカコーリョ村の友人たちから聞いたことではあるが、4袋の米と、1袋の砂糖を受け取っただけだったそうだ。800人以上が住む村人たちへの配給と呼ぶにはあまりに、格好だけのものになっている。ましてや、遠隔地にあるクエンコ村などはご多分に漏れず、彼らは何一つ受け取っていない。クオヤの配給センターからは、物資はちゃんと出荷されているにもかかわらず・・・だ。

大統領のアラン・ガルシアが今日クスコに飛んだ。クスコに通じるハイワー途上にあるルクレからはヘリで被災地へと向う。結果、殆どのNGOからの援助の恩恵を受けている場所だ。ある友人たちは、そこで古着屋ビジネスを始め、活況を呈している。自分たちの「必要以上」のものを受け取っていることは間違いない。バラテオにある市場でエルモーレが古着を仕入れてきており、それらをここクエンコ村に届ける予定なのだが、その際の古着屋の訪問者たちが口々に話していた。

ガルシア大統領は、農耕の先住民たちが済む村々ではかなりの支持率がある。ペルーのGoggleのニュースでは、ペルー通貨であるソルを国際市場に統合する準備として、ペルーでの安価な労働力を背景に、ペルーの貴重な鉱物資源を多くの海外資本の資源開発業者へと売り渡そうとしている。ケチュアの民への畏敬の念を持つこともなく、資源開発業者たちは認可を受け次第、掘削を開始し、この土地の聖なる水を、採取後の廃石を洗浄するのに用いるのだ。

ラロもガルシアがヘリから実際に降りて視察したのかどうかは知らない(農民たちのデモ運動によって昨年は訪問がキャンセルされた経緯がある)そうだが、65億円相当を災害復興支援の費用として緊急拠出することになったそうだ。
















ラロは「付近の村々どこにおいても、物資は行き渡っていない。カカコーリョ村では事実、4袋の配給しか受けていない。」と言った。これら多くの基金はインフラ整備にまわされることは間違い無い。国道、ピサックの橋の修復など・・・。ありがとう・・・と言っておくべきか・・・。

そして何が起こることを期待しているのか?そうだ。バスがまたたくさんの観光客とともにこの土地を訪れることだろう。僕も協力して、カカコーリョ村の採石所から、大きな岩でも運んでこようか?


2010年5月14日金曜日

Paulさんからの日本のみなさまへの手紙

ペルーピサック基金の皆様へ

今日2回目の現地への送金を終えました。本当に尊いご協力をありがとうございます。

それから先週第1回目の送金後まもなく、ポールテンプル氏から以下お手紙を頂きました。多忙な中、みなさんからの愛をしっかりと感じ取っているよ。というメッセージに彼と、パチャママの大きな愛を感じます。

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親愛なる日本の皆様へ

最近ここアンデスは冬の季節を迎えています(カナダに比べるとその比ではないけれどね。)日没の時間もだいぶ早くなってきました。トウモロコシの収穫も続いてはいるものの、その殆どはこのプルマクルコの自宅からもいくつか集落を眺望することのできる「パタパタ地区」に限られています。

午後は少しリラックスして、今年庭で育てている「ホピタバコ」を巻いて過ごしました。他にもたくさんの植物の種を蒔いたので、また聖なる植物を収穫することができるようになるでしょう。


友よ、人生は素晴らしいよね。

君や、君のまわりにいるたくさんの高貴な志しを持った友人たちのこころをとっても感じているよ。

みんなエハンを通して、心のこもった人々の輪が、このプロジェクトに命を吹き込み、困難な状況にあるケチュアの友を力づけてくれている。

豊かな祝福がありますように 愛をこめて


ポールテンプル



ボリビアのコパカバーナ、マヨフェスタでのダンサーたち。キリスト教信仰の巡礼の一環。でもこの風習の前身は南十字星と、それに近い存在であるプレアデスを祝う風習に基づいている。

追伸:

エハンはコーンウォールから無事日本に戻ることができたのかな?
彼によろしく伝えてくださいね。パウロ

2010年4月28日水曜日

カカコーリョ村への帰還 vol.4

チャクタカッカ山より高地の山間の村々から、「ポテトの民」が今回の被災で大いに苦しんでいる、という噂が出回っている。より高地に行けば行くほど、農耕にはより厳しい条件が加わり、生活レベルもより貧しくなる。ここ聖なる谷では、比較的幅広い農作物が植えられており、通年でトウモロコシ、ジャガイモ畑、その後に小麦畑と続く。カカコーリョでも同様だが、若干時間枠ではより厳しい条件が重なる。高地の人々は本来は遊牧民であり、農作物として育てることができるのはジャガイモしか無いのだ。(高栄養のアマランス種のカニフアと呼ばれる穀物は、海抜4000m~4500mで育つが希少である。)彼らは人類を養い育てる農業遺産である「ポテト」をこの世界にもたらした開祖であるにもかかわらず、大きな苦しみに直面している。この20年間経験したことの無い、想定外の高地における豪雨により、ジャガイモの収穫は大きな被害を受け、その殆どが地中で腐敗しているのだ。僕がその彼らのことを耳にしたのは、バラリオの先祖はこの民の出身であるということ。そして彼の奥さんはカカコーリョ村の出身なのだが、2日間ほどかけてカカコーリョを訪れ、小麦や砂糖、レンズ豆といった食糧を補給しに来たそうなのだ。

コリコチャの広大な貯水池に近いパタバンバ村は大丈夫だろう。もう少し小さい2つの村、山際にあるクエンコ村(クスコの近くにある遺跡のケンコーとは異なる)と、シワ村は深刻な被害状況のようだ。バラリオとこの2つの村に、明日にでも訪問し、被災状況を確認してこよう。

カカコーリョ村に訪問した日の夕刻のこと、救援活動を行っているエルモールとアンナに招かれた。僕らの提案を話し合うための席を、おしゃれなピザのポットラックでもてなしてくれた。ミカルが靴下で作った指人形で子供たちを楽しませてはどうかな?という提案には皆がインスピレーションを感じていた。素敵なアイデアだ。僕の役割はイベントの参加者を募り、イベントの日時を決めること。たぶん学校あたりがいいかな?でもちょっとだけ気にかけて欲しい。この子たちにはこの靴下さえ無いのだ。

翌日3回目の食糧物資の配給を行った。30世帯は本当に心から感謝を表してくれた。しかし同時に他の物資を受け取れない世帯から、不公平感が広まりつつあるのを感じる。支援物資を一番必要としている人々に行うこと。おそらくもっと公共的な視点での援助も視野に入れる必要があるだろう。例えば市庁舎の再建に支援を申し出る・・・とか。(市庁舎もそれほど甚大で無いレベルだが、この洪水で破壊された。)そういうスタンスを維持することで、村の残りの人々が支援に公平感を感じてくれるといいのだが。ペルーに乾杯!

火曜日。いい知らせが届いた。バラリオが僕のの水道管敷設支援に関する申し出を見送るよう話してきた。ある村がクスコ市庁の水道管理者に対して申し出を行ったそうなのだ。おそらく近日中にも検討結果が出ることだろう。更に、30世帯のうち18世帯が一時帰宅を許され、家の修繕に取り掛かることになったそうだ。最終的には自宅に戻る日が来ることだろう。他の政府の部署では村の構造的に弱い地域に対して排水用の水路を敷設する動きがあるとのこと。僕らはカカコーリョ村で今回最も被災した30世帯の実名リスト、家族構成、年齢などの情報を提出した。老夫婦たちにとっては多めの毛布が必要だろう。しかし小さな世帯では、乳幼児のいる母親などは、もっと牛乳の配送が必要だ。もっとも弱い、必要を覚えている存在を、ピンポイントで把握していく・・・必要は何か?最も効果的な活用方法は何か?より救援物資を公平に分配するにはどうしたら良いか?援助をしにペルーに休暇にちょっとだけスペイン語をかじって訪れてくれる人がいたら伝えたい。「古着を持ってきて!特に子供用と、大人用で小ぶりなサイズのものをなるべく・・・!」

皆さんのお祈り、励まし、ご支援、基金へのご協力に心から感謝申し上げます。

海外から当支援に協力を申し出てくれる友人へ。カナダ在住の方は(INTERAC)という電子送金手段があります。海外(日本を除く)からの協力者は、PayPalを使用してください。メールアドレスは以下:          

メールアドレス: paultemple1@mac.com

郵送先住所:               

c/o Ulrike’s Cafe,
Plaza de Aramas 828,
Pisaq, Cusco, PERU

ペルーでの携帯電話の番号は、クスコ地区外から電話する場合、頭に(084)をつけて。その他、海外からは +984-239-499

2010年4月24日土曜日

カカコーリョ村への帰還 vol.3




これらは避難キャンプの上部に設置されている避難小屋。これは動物用の小屋では無い。人間用の避難小屋なのだ。


殆どの家を失った住民たちはすでに市営の防災組織のテントに移っている。いくつかのテントにはビニールシートで覆われている。これらは山岳用のテントでは無いので、雨漏りがする。床に縫い付けられたマットがあるわけでも無い。ユーカリの木の枝とビニールシートで構成されたマットレスが、泥だらけの地面から難をしのいでいるだけだ。これは見ていて辛い。


実際に現地ではどのような必要に迫られているのか・・・。これを正確に把握しようとしているところだ。そしてどの程度の期間、どのくらいの予算が必要なのか。また実際の収穫量やタイミングも考慮する必要もあり、これは実際には天候とも密接不可分な関係にある。今ざっと僕の中で言えることはこうだー

食糧の支援はトウモロコシの収穫時期になるまで必要だ。収穫は5月の中旬あたりから始まり、6月の終わりには収穫を終える。楽観的にみても6月中旬もしくは下旬ぐらいになるだろうか。乾季(レンガ造りの季節)は4月から始まる。建築用の道具類、つるはし、ショベル、「ランパ」と呼ばれる木製の型に泥と水を練ったものを入れるための道具、そして手押し車なども1台か2台は必要になるだろう。 4月か5月には建築を始める必要がある。そして彼ら自身で生産できない釘やワイヤー、「カリッツォ」と呼ばれる屋根裏用の竹で出来た建築用資材も必要になるだろう。 「テジャス」と呼ばれる伝統的な粘土で出来たタイル、なるべく軽いブリキ板などなど。(しかし実際の方法論ではこれらの資材を最適活用するには、彼らが独自に行っている建築方法を少し洗練する必要があるかもしれない・・・)そしてその都度発生する雑費もろもろ。予測の範囲内/外を問わず、診療が必要になる状況もあるかもしれない。ラヤニヨック地区裏にある木材置き場からユーカリの木で梁を収穫できるだろう。だが輸送費のこともある。トラックの一台や二台。チェーンソー要員、ガソリン代、オイル代・・・。これはまだまだ骨子の段階。本当に必要最低限のレベルの見積もりだ。彼らが独立して自治にあたり、これらの試算を考慮することで、自分たちの足で立ち上がることを支援せねばならない。その一番の筆頭課題はー食糧、そして住居、窓やドアは、また彼ら自身で試算してもらわねばならない。


結論から言うと、やはりコストの問題だ。今僕の手元には6000~7000ドル相当の尊い寄付金がある。食糧をあてがう限りにおいては十分だ。(もちろん仮に追加の予算があるとしても、彼らの生活水準を上げ、疫病の脅威から守るためには免疫力の向上が欠かせないので、まずは食糧支援に重点を置きたい。)同じくらいの金額が、建築用の道具類に必要とされるだろう。12,000~15,000ドル(約120~150万円相当)あれば十分だろう。もうすでに半分満たされている。そして僕らの友人からの助け(特に最近は「友達の友達」からの・・・)が拡がっていけば、十分目標を達成することが可能だ、そう確信している。この災難に出くわした魂の心に喜びと慰めをもたらすには十分な支えだ。


このペルーでの災害を大きく上回るスケールでの被害がチリ、ハイチといった全世界中で日常茶飯事となってしまった今の世界において、上であげたような支援の要請は賞味期限の短いものかもしれない。でもこのようなちっぽけで名も無い、しかし大きなハートの先住民の隣人たちは、彼らなりの方法で、僕を彼らの中心に招きいれてくれている。 Muchas Gracias para mi compadres. Muchas Gracias Pachamama. (父なる神、そして母なるパチャママに感謝)


試練の時期だ。ひたすら天候のために祈り、ケチュアの兄弟姉妹たちの幸せのために祈る。摂取、及び就寝のパターンが乱れ、彼らの状況が最近は頭から離れない。自分のエネルギーを効果的で、バランスが取れたものに保つように、注意せねばならない。数時間ほど庭であたたかな日差しが降り注ぎ、植物の世話をすることは、何より疲れた心を癒やし、地に足の着いた状態へと戻してくれる。


僕の個人的なエネルギーの整え方はインドの教えから学んだものが多い。ヨガ、サンスクリット聖歌、瞑想、ヴェダンタ哲学などが、気分の移ろい易さなどから遠ざけ、中心に戻してくれる。インドの精神性は僕を整え、準備万全にしてくれている。そしてペルーは他者をおもいやることに関する教えを与えてくれているのだ。

2010年4月23日金曜日

カカコーリョ村への帰還 vol.2



日曜日、村ではコリコチャ(Qoricocha)の貯水池の運河を清掃するためのグループが向っていった。コミュニティ一帯の共同プロジェクト、「アイニプロジェクト」が立案されることになった。この運河が激しさをを増す豪雨から村を守ってくれると良いのだが。


月曜日、バラリオと村に戻り、丸くて平たい「パンチェッタ」と呼ばれる全粒粉の小麦でできたパンを何袋か購入した。この数日間のうちにそれぞれ帰国することになっているアイリーンとスティーブと合流する。彼らも深刻な被害があったタライ村での支援活動に従事していた。政府もようやくこの地域一帯の対処に動き出したようではある。地域の教会、そして修道女たちが中心となって、700食もの食事を毎日3回配給している。彼らもまた同様に、より高地の遠隔地に支援を集中しているようだ。このタライ村へは低地の状況がどうなっているのかを視察し、彼ら自身が募っている基金、及び支援活動をどのように最適運用するべきか考慮するために。


(上の写真の)タライ村のキャンプに到着した時点で、すでに放棄されていたに等しかったが、この緊急事態からようやく学校が再開し、子供たちも僕らが以前提供した新品の学用品を持ってやってきた。雨は降っていないので殆どの世帯の家族たちは屋外でひょうの被害や、大量の水を含んだ地盤状況の確認、前の家から使える物資などを運び出す作業に必死だ。民間の防災組織の指導者たちは、更に多くのテントやプラスチックのゴミ箱や、ポリエステルの貯水用タンクを提供し、野営の医療チームはキャンプをたたんで引き上げたようだ。



僕らはここで、きらきらと輝く素敵な魂たちに出逢ったのだ。子供たちが学校から帰ってくるまでに炊き出しの準備を、共同炊事場などで従事してくれている、このコミュニティを代表する方々だ。モーゼは僕との連絡役となってくれている。村長であり出納係でもある彼は医療チームの代表でもある。彼らはこの避難キャンプグループの責任者でもあり、キャンプでの実際の避難支援活動を推進し、寄付された物資の配給を行っている。僕の個人的な見解としては、この代表者の中にハートフルなマミタス(おっかさん)が加わっていたらベストだと感じている。確かにそう提案することもできるだろう。でもそれは彼ら自身が決めることだから僕が口を挟むものでは無い。彼らの内政干渉をするようなことだけは避けたい。


医療チームの代表がいないのはまことに残念。湿った環境が長く続いたことで、肺や気管に問題を訴える住人が増えていることが気がかりだったからだ。(ルネーからも同様の話を聞いた。タライ村では咳をする年長者たちが増えているとのこと。)
一番気がかりなのは被災して避難キャンプにいる赤子たちのことだ。クオヤ(Qoya)地区の医療ボランティア診療所のカウセイ・ワシに近く診療してもらえるよう早速連絡を取ってみようと思う。もしあなたがこの避難キャンプに移動してきた30世帯の1人だとしたら・・・実に状況は大変深刻なことがわかるだろう。せめて彼らが願っていること、それはこの水浸しになって家々、所有していたわずかな土地から一刻も早く引き上げることだ。村にはまだまだ浸水したままの状態にもかかわらず家に留まらねばならない人々が多くいる。
この時期に泥だらけの床が乾くには多くの時間を要する。栄養失調の状態は著しく、疾患の問題があらわれてくるのは避けられないだろう。




僕らが仕事に取り掛かろうとしたとき、若い母親が僕らに・・・信じられないだろうが、食糧・・・ふかしたジャガイモ、そして彼らにとっては貴重なタンパク源である野ねずみを手渡してくれた。彼らの慣例に敬意を表するために、ふかしいもを食べた。でも齧歯(げっし)動物である「そいつ」は僕には多すぎる。お皿はほぼ手をつけずに、しっかりと「ありがとう」と伝えた。この食物を最も必要としているのはあなたたちなのだから。


今回の任務は完了した。繰り返しになるけれど、「何が必要ですか?」との問いに対する「FOOD」との答えは変わることがなかった。いつでもリストのトップにあがってくる。建築用の道具類は、もう少し後で必要になるだろう。でも乾季が始まるまでの間、「食糧」がリストのトップであることは間違いない。衛生上の問題もすでに露呈してきている。食事の準備のために5ガロン(19リットル)ほどのバケツを、若者たちが引っ張っている。でも体や衣服を洗ったり、赤ちゃんのおむつを洗ったりと、もっと適切な水の供給体制が求められている。


それともラヤニヨック(Rayanniyoc)にある自治体で賄われている給水タンクへ水を補給できるよう輸送費に支援をまわすべきか。でもこれは長期的に見ると、あまり得策では無い。実際にここで本当に必要とされているのは2300メートルに及ぶ水道管の敷設であり、これは比較的大きな投資アイテムとなる。まずは彼らの健康を支えるための基本的な食糧にあてがい、水路の確保に関しては長期的に見ていくしか無いか。もしそうだとしても、敷設費用がどの程度になるだろう。まずはコストを見積もってみることからだ。


食糧は勿論一番の優先アイテムであることは間違い無い。彼らは何も贅沢を言わないのだ。安価な米、パスタ、砂糖、ジャガイモ、普遍的な貧しい高山地域での比較的炭水化物偏重型の食生活だ。現在最も切迫している健康状態に関する問題だが、僕の個人的な見解では防腐効果の高いセボラ(たまねぎ)とアジョ(にんにく)、そしてアンデスのスーパー穀物であるキヌアとキウィチャ(アマランサス)、これだけあれば十分だ。バラリオと相談しながら、もう少し栄養素の高い食糧を取り入れることにしよう。

2010年4月11日日曜日

カカコーリョ村への帰還 vol.1

カカコーリョ村への帰還
2010年3月16日

原文サイト: Return to Ccaccacollo



先週日曜日の午後、一週間続いた日差しの魔法のおかげで、天空を覆っていた雲が抜け、嵐のさなかの暗雲だけでは無く、青みがかった紫色の雲の入り混じる夕日が差し込む。それもつかの間、また天からは数分のうちに豪雨が降り始め、家のすぐ裏の水路が激しい濁流と化した。すべての家々のバルコニーは浸水状態であり、警戒水域にある。


幸いなことに、豪雨の中には小石ほどのあられが入り混じっていて、すぐに溶けてしまう。でもピサックからクスコへの道は一時的ではあるけれどもまた閉鎖されてしまった。エルモール(El Molle)の外の道沿いに、斜面に横並びに建てられた家々を脅かしながら、泥流は激しく下流に流れていく。カカコーリョ村の人々は既に今年の収穫量への被害予測を立て始めている。美しい日没の風景が、少しの慰めを与えてくれた。


実は一週間前に、カカコーリョを訪れた際に、30世帯ほどが住む家を失ったのだけれど、そのような悲痛な状況にもかかわらず、住人たちは一切不平をもらすのでもなく、実直にこの災害に立ち向かおうとしている姿勢が感じ取れた。なんという忍耐力なのだろう。僕は彼らのこの強い精神力に腹の底から大きな衝撃を受け、「どんなことでもいいから彼らにとって必要な支援を申し出たい・・・」と決意を新たにした。


翌朝また食糧を運びにバラリオと村へ向った。そして午後にはブログ記事の投稿を行った。それは僕の親交のある少人数の友人たちとシャーマンが執り行う儀式に使用する「聖なる植物」の研究に関して、シェアするために起こしたブログだった。けれど急遽そのページは現在発生している「災害報告」へと形を変え、多くの暖かなコメントによって、個人からの支援の申し出や、直接的な支援のための要請といった目的に使用されることとなった。反響は本当に心温まるもので、勇気付けるコメントや資金的な支援の申し出に感謝の言葉しか見つからない。現在6000ドルほどがすでに寄付されており、送金中のものもあわせると約7000ドルに達する。前回告知させていただいた、送金方法詳細に関しては殆どの人々には必要十分だったようだが、一部の支援者は銀行の窓口で「ペルーの実際の住所を記載してくれ」と要請されたのだそうだ。パタカーレから端を発する、この蛇のようにうねったアンデン(Anden)という名の棚田の等高線に沿った古道、アンデスという言葉の語源はまさにこの棚田(アンデン)に由来するのだが、二本目の水路に沿って進み、岩壁を左側に進むとそう、よくいらっしゃいました、ここ「プーマクルコ(Pumacurco)」にご到着。


 「Señor Paulo, the gringo、外国人のセニョールポールはいるかい?」


そう尋ねたらこのピサックプエブロから歩いて15分ほどの小規模の農作地帯では、誰もが僕の棲家を指差すことができる。だけどそんな情報、一体銀行がどうして必要とするのか。なのでこのブログの終わりに、郵送先住所、カナダ国内用のInteracを利用した電子送金方法、それからPayPal(注:日本以外の地域のみ)の活用方法についての情報を記載しておこう。(カカコーリョ村への帰還 vol.4に記載されています)


確か4日前のことだったか、最初の食糧物資の配送を行った後のことだ。それがどのように使われたのかを聞いた。なんと「村全体で祝宴を催したというのだ!」もちろんそこには食前酒やオードブルといったご馳走は並んではいるはずもなく、一杯のご飯と、薄味のスープが配給されただけだ。一緒に喜んでいいものか、泣くべきなのか分からなくなる。僕らにとってこの800人ほどのこの村民全員の人々を養うことは、ほぼ不可能に近い。けれどもこの村の人々の気高い精神性、そして「アイニ」という概念に表される相互扶助の精神、互いに手を取り合い支えあう姿は、このケチュア文化の独立性とアイデンティティが保たれる要因であったことは疑いようがない。


日干し煉瓦の接着剤として使用されるセパジャ(thepaja)という名の高山草があるのだが、これを収穫する頃にまで覚えておきたいと思った。この出来事は実際に被災した住民と、そうでない住民とはほぼ紙一重であったということ、更に村民ほぼ全員が一致して「食糧の供給」を必要としており、村の主だった農業従事者たちは食糧の自給率が著しく低下していること、そしてこの高地ではトウモロコシの収穫は2ヶ月を待たねばならない、そして長引く天候不順により収穫量そのものに大きなダメージを受けていることを挙げていた。減産量は60%に達する見通しで、購入することができる者はわずかであり、村民の生存可能性そのものが大きく問われている状況だ。私はここで苦渋の選択に迫られた。食糧の配給を家を失った30世帯に絞り込むというもの。とてもセンシティブな問題だ。文化的な慣例などを十分に考慮しながらこの状況に対処していくことが求められている。

2回目の食糧配給は更にこのような意図を明確にして実施されたのだった。そして実際に家を失った人々たちに配給された。この食糧配給と学用品の支給に対して、市役所の人々がどのような対応をとったのかを思い出すのは胸の痛むことだ。彼らはなんと20ドル相当のオフィス用品と、ウェリントン社製ブーツを私たちに提供してきたのだ。それはわずかな割合であるかもしれない。しかし最も支援が必要とされているさなかにあって、(わたしたちの必要のために)資源が割かれるというのは耐え難い事実だ。この事実が誰かの善意を喚起するきっかけになればと思う。彼らは単に役所の番人として、供給物資の対等な交換が実施されているかどうかを監視しているだけなのだ。それが慣例としてまかり通っているのは事実のようだ。わたしはここペルーで従事していることに改めて気づかされた。この困難な状況に際して、食糧供給連鎖の一端で、略奪者たちが自分の利益のためにこの状況を利用したりすることが無いよう、見守ることにエネルギーを注ぐ必要があることを。


事始めとしてはまずまずと言ったところか。

今週は午後になると激しい風が吹いてくることが多い。彼らは雨季の終わりを告げるサインだと言う。これが単なる願掛けではなくて、彼らの言うとおりだといいのだが。