Paul Templeピサック救援活動ブログ(日本語版)

2011年2月27日日曜日

アンデスの春の訪れ

そういえば、Paul Templeさんのピサック救援基金の最後の日記を翻訳するのが、ペルー訪問の準備と重なっていたこともあり、忘れた宿題となっておりました。

昨日Paulさんから、素敵なニュースに満ちたお便りを頂きましたが、それでこの宿題を思い出してしまいました。

本「ピサック救援基金」はおかげさまで目標額に到達し、当初は食糧配給を重点的に行っていましたが、昨年の11月、つまり春の訪れとともに、ケンコー村の医療センターの建設、及び被災した方々の家屋の再建に充てられているとの事です。

(現在Paulさんご自身は、基金そのものの募集は行っていないものの、お志頂く場合は、それはこのような長期的な支援に充てさせて頂きますとのコメントを頂いております。)

では、3ヶ月も過ぎてからのご報告となりますが、ご関心を寄せてくださった方、どうぞ彼のレポートを感じ取ってみてください。

パチャママに感謝

陽一

Wednesday, November 17, 2010

ここインカの聖なる谷に美しい春の日が訪れた。季節特有の雨季も始まったようだ。光のシャワーと、その合い間を縫って土砂降りの雨模様へと変化する。この時期ならではの光景だ。すべては均衡を取り戻しつつある。


パタパタ耕作地帯は、見るも鮮やかな緑に包まれ、マイーズがぐんぐん成長している。山々も同様に、最近の雨への感謝の表現として、鮮やかな緑に輝いている。

この写真はカピラ(capila)という、ピサックのはずれにある教会から撮られた写真で、西の方角(ウルバンバ川下流方面)を撮影している。僕の家はこの写真で言うと、右側の方角にある。

この最近の春の雨の影響で、ウルバンバ側流域の村において、土石流、巨石、そして大木が根こそぎ下流の村に流されたという事象が、チコン氷河よりも上の村で発生した。被害は発生したものの、死傷者はゼロなのは幸いだった。。親しい友人は夜間に高地へ、子供たちと一緒に避難した。台所に巨木が落ちてきたそうだ。

氷河巨大な一部が崩壊して、湖に落下したことで発生した水位の急激な上昇によるものか、はたまた地方自治体の伐採活動によるものなのか、原因は不明だ。一部の人々は、雨季が開始する前としてはあまりよくない前兆だと話している。

(昨年大きな洪水の被害を受けた)タライ村では、激しい雹が降り昨年の洪水の悪夢を想起した村人は半パニック状態に陥ってしまったようだ。昨年発生した洪水の光景、コリコッチャ山からウィルカマユ川流域で発生した床上浸水の状況。この状況はあまりに鮮明のその光景を村人たちに想起させたのだと推測する。

大抵の人々はプエブロ(粘土作りの家)に戻ることができたが、ある村人は親戚の家などに身を寄せたりしている。また一部の人々は未だに避難用の小屋で仮住まいをしている人々もいる。

(私が理解している限りでは)洪水の影響を受けた多くの人々は、政府から直接的な支援などを受けてはいない。

政府は名目上のわずかなキャッシュを提供したが、これで家々を再建するにはあまりにも不十分と言わざるを得ない。タライ村ではその資金援助すら行われず、これでは状況は変わらず、事態が改善される兆しは無い。

このような事象が発生したにも関わらず、農村の人々からはこの雨季を「恵みの雨」として歓迎しているようだ。収穫量と質は低下しているにも関わらず、収穫期の訪れとともに、食糧配給支援の要請は止んでいる。

比較的高山地域のケンコー(Q'uenko)村の医療施設建設のための、建設資材提供に現在、支援をシフトしているところだ。最近では「カリッゾ」と呼ばれる(竹のような)屋根の枠組みに、「テジャ」と呼ばれる焼き物でできた瓦を敷き詰めていく工法だ。この構造は「フィナ」と呼ばれる共同体の労働者たち(集団労働チームのようなもの)によって組織されており、本格的な雨季が訪れる前に、今週屋根吹き作業を完了する見通しだ。



屋根が完成すると、今度は内装を施していく。床、窓、ドアなど。そして水道管の敷設と、電気工事、しっくい塗り、ガラスのはめ込み作業などに移る。2011年の3月にはすべての作業が完了する見通しだ。

ケンコー村のじゃがいも不作の顕著な影響としては、殆どの世帯が赤字収入であるということ。従って彼らの殆どは一時的にプエブロから実を引いて、現金収入に結びつく労働に従事している。

この忍耐強い人々は不平不満も述べずに、どんな仕事でも喜んで引き受ける。けれでも残された家族の思いを察する術も無い。




この数ヶ月は本当に多忙な日々が続いている。政府はピサックとクスコの間の痛んだ道を修復しており、(洪水の原因となった)運河の清掃、修復に余念が無い。ピサックにかかる橋も橋脚にあたる部分に補強工事が施されている。

僕個人にとっても、この「運河の清掃、修復作業」は必須の課題であることは間違いない。軒先の排水路と、ガーデン棚の補修工事は、低い場所のものと比べて倍のサイズを必要とする。



ああ、大地の女神、パチャママのなんと慈愛溢れることよ。果実、そして花々が同じ桃の木でほぼ同時に実りと開花を迎えている。そして大きく実ったばかりのブロッコリ、昨年からのケールなどを僕の庭で収穫することができている。

昨年咲き乱れていたバラの花々が、同じ場所で今年も咲き乱れている。昨年植えたラッパスイセンの球根が芽を出し、ひまわりの花も芽を出している。

ここプルマクルコでは標高約3000mくらいある。マイーズ(とうもろこし)とじゃがいもが主な作物だ。成長も早くて、実験的にキヌア、カニファ、そしてマカを栽培しているのだけれども、ケンコー村は標高が4600mもあるので、これらのスーパーフードはまだ芽を出してくれていない。

アンデスの春は年間を通しても本当に美しい季節だ。差し迫った「備え」としては、この雨季に対してできる限りの対策を講じておくこと。地域全体でも十分に事前の注意がなされており、昨年よりは確実に備えができている状態だ。けれども第三世界特有のインフラの脆弱性を孕んだままではあるが。

政府は衛星画像を経由して、洗練されたコンピューターモデリングで、12月の雨量を予測しようとしている。農村の人々、カンペシーノたちは伝来の言い伝えより、アプ・パチャトゥサン(Apu Pacha Tusan)の頂上に雪が降るころには、雨季が始まるということを知っているのだ。




頂に雪が降るアプ・パチャトゥサン

バラリオと外で雑談をしながら、「ねえ、バラリオ、君はどう思うかい?12月の雨量はどんな感じになるのかな?」

彼はにやっとして、(僕は彼をからかっているのかな?)目をきょろきょろさせながら、こう答えてくれた:

「あ、みんなたくさんガリナス(鶏)みたいにお喋りしすぎるのさ。だから間違える。天気のこと(将来起きること)なんかあんまり詮索しないほうがいいのさ。もっと神さまを信頼することだね。」

さすが!それでこそ僕の見込んだ男というものだ!

ウルピヤイ・サンクルヤイ(Urpiyay Sunkulyay) ...
「僕のハートにいる小さな鳥から、感謝を込めて」

Paul Temple

2010年8月30日月曜日

Valle Sagrado救援活動



クエンコ診療所
2010年8月28日

もう最後にブログを更新してからどれくらいの時間が経ったのだろう・・・。乾季はすでに十分すぎるほど安定しているし、Apu Lini(リニ山)を背景にした上の写真で見ると、僕の家は真ん中から左手の木々の間にある。ピサックのはずれに位置し、プルマクルコ区域の農作地帯からほど近い場所である。

6月の後半に品質的にも量的にも例年に比べて見劣りはするものの、ようやく作物を収穫することができたこともあり、食糧物資の配給を一旦停止することになった。従って私たちが実施した支援活動の殆どは村々の住民に対して建築資材、及び工具の提供によって占められることとなった。僕も例外にもれず、家の手入れとガーデニングの整備に余念が無い。9月と10月頃に春の種撒きが行われる頃には、再度食糧配給に対しての検討を行う予定だ。

7月の終わり頃には、ペルーでのVISAを更新するために、24時間だけボリビアを訪れた。

クスコからリマへ飛んだ2日後、プカルパ(Pucallpa)経由でコンタマナ(Contamana)と呼ばれる小さな平原へと向う。Benjamin Mahuaというシビボの祈祷師、他3人の弟子たちとともに、聖なる植物療法に関する打ち合わせを行うためだ。写真は飛行機から撮影した、ウカヤリ(Ucayali)川。



僕らが滞在したのは、2つの河川の流れの合流するポイントだ。一つは冷水が。一つは天然の温泉。どちらか好きな温度の場所に滞在することができる。園の管理団体が建設したモロカと呼ばれる場所で、夜の聖なる儀式を執り行うのが目的だ。コンゴウインコの群れが頭上をかすめて飛んでいくのを見ながら、コルパと呼ばれる場所を訪れる。粘土を舐めることで必要な栄養を摂取するのだ。大きな青いモルフォと呼ばれる蝶が毎朝羽ばたいていくのが見れる。


サウナの上には蒸気通気口が立っている。この地点ではもう川は熱すぎて入ることができない。帰りの際に、ペルーでの居住権を得るための必要な手続きを行うために、リマに数日間滞在した。



ピサックへ戻る途中、作業員たちはすでに土嚢の積み上げと、テラスの作成を完了していた。



ベンジャミンたちが到着して、聖なる植物のワークを継続して行うことができるように、主に果物と花を植栽している。



8月終盤になると、春の種植えに向けてパタパタと呼ばれる畑でうねを作るために、牛のトラクターが大活躍!僕もたくさんの種類の野菜の種を植えるんだ。



先週は、聖なる植物の儀式の合間に、クエンコ村を訪れることができた。古着の提供があたたかな感謝とともに受け取られた。じゃがいもの収穫は、今年は既に実施済みである。塊茎が小さいものはフリーズドライにされた。ホワイトモラヤと呼ばれるもの、これらは2週間ほど水に浸されたものであり、写真の手前のタンクで天然冷凍状態にて貯蔵されている。



僕らが支援しているクエンコ診療所の建設の様子を見に行った。7月には100袋ものセメントを供給した。基礎工事が終了した模様。政府関係者との調整では、村がきちんとした建物を建設するならば、診療ワーカーやスタッフを提供しようという取り決めがなされた。



今週作成された、日干し煉瓦。地方自治体のメンバーにも会うことができた。必要に応じて木材と梁を提供してくれるとのこと。9月5日の創立記念日にお招きにあずかる。計画も承認され、診療ワーカーも9月1日から稼動を開始する。建設が完了する前からでもだ。

先月は村ではスペインから団体が訪れて、医療サービス運営のための基金をどう組織するかが議論された。彼らが山を降りる途中に、マイクロバスが不慮の事故に遭遇し、4人が死亡。5人が重軽傷を負った。ゆえに基金の話は無くなった。事故現場では、小さな十字架が捧げられている。以前にも話したように、僕は地方自治体メンバーに、この診療所の建設費用の一部を負担することを再確認した。


村を離れる前に、コリコチャ湖へと歩いた。渡り鳥たちが通り過ぎ、ラマとアルパカが乾燥した平原で放牧されている。今年の1月に大きな被害を引き起こした元凶とされる修理が必要な運河は、清掃と修復が完了していた。



「救援基金」は紆余曲折を経て、当初予想していたよりもはるかに長期間に及ぶ取り組みとなった。しかし、彼らの笑顔を観ているだけで、何故このような行為がなされたのか、その原点に立ち戻ることができるような気がする。

9月と10月に種植えの季節が始まれば、僕が考案していた、キヌア、カニフアといったスーパーフードの作物を育てる試みも開始される。種植えが終わる頃にまた、食糧配給に関する検討を再開する予定だ。




最後に一言:当初見積もっていた目標金額である12,000ドルから15,000ドルもの基金が達成されました。これまでにUS$15,526が寄せられ、これを受け基金窓口の表記などは(僕のウェブサイト上のものは)既に削除されています。既に数人の方々が後期においても、寄付を続けたいとの意向を示してくれ、どのような方法で送金された基金でも、僕らは常に最も過疎化が進み、貧困の度合いの高い地域において、直接村の住民たちの手に渡るよう、最善の用途を模索してきました。

この地を訪れるどのような訪問者も、「古着」の提供はいつでも大歓迎なのです。子供サイズ、大人のSサイズが一番役に立つでしょう。今日までに私たちは既にUS$7556.29を使用しました。8000ドル近くがまだ残っており、主にクエンコ村の診療所の建設に使用されたり、カカコーリョ村の家々の建設に役立てられます。また雨季のあいだ、地域住民たちが必要十分な食料確保するために用いられていきます。

もし(監査目的などで)使用状況などの詳細記録をご覧になりたい場合は、ご連絡ください。

この救援活動を支えてくださったすべての方々に、そして継続的にサポートしてくださる方々へ心から感謝をお伝えしたいと思います。

この試みは継続的に、私個人にとっても大きな学びの場であり、このペルーの地において、文化的な「つながり」が次々と展開していくものとなりました。このプログラムが継続される間は、その様子を少しでも定期的にお伝えする努力を続けていきたいと思います。しかし、3年間に及ぶ自宅建設費用の返済、ペルー移住のための関係機関における公的手続き、ブロッコリの種植え、夜間7-8時間に及ぶ私のシャーマンの祈祷師とのセッションの合い間を見つける必要があります。叡智に満ちた教えの数々、そして彼のメディスンソングを録音すると、私のPCのディスクはすぐに容量一杯になってしまいます。

愛と感謝を込めて
ポールテンプル

2010年6月17日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.4


バラリオと僕は「コリコチャ湖」を訪れるために、村の傍らの山道を登っていった。いわゆる今回の聖なる谷に大洪水をもたらした元凶と噂される湖のことだ。といっても湖に罪をかぶせる必要は無い。それよりも更に高い場所に位置するランラキックロ(Ranrakiccllo)湖が決壊し、クエンコ村よりも上にある泥で固めただけの砂防ダムを破壊したのが、今回の泥流の主な原因だ。手作業で掘り進めた水路は、いとも簡単に増水し、コリコチャ湖になだれこむことは誰が見ても明白だったはずだ。水路が長期間にわたり清掃されていなかったことが、今回の更なる悲劇を生んだ。

湖は静けさを取り戻し、凛とした美しさを放っている。背景には残雪をたたえた山々と牧草地、牧草地帯と、おびただしい数のアンデスの高山植物がが湖を取り囲んでいる。ひんやりとした風が吹き、陰鬱な空が広がる。大きな猛禽類が飛び立った。赤茶の鷲が斜面の輪郭をなぞるように飛んでいる。 「アルカマリ」という白と黒の鷲は、中空で弧を描いている。

















バラリオはこの村の手前で、パタバンバの耕作地である草原地帯が途絶えると教えてくれた。この土地は農作地としては収穫の後に2年間ほどの休耕期間が設けられている。しかしこのあたりでは、やや色彩を失った草原が広がり、クエンコ村の耕作対象地ではあるものの、じゃがいもしか育たない。斜面に拡がる土地も一様に休耕期間のようだ。肥沃さを取り戻すにはなんと6年間もかかるという。

あたりを囲む山の斜面はじゃがいも耕作地として、7年周期で分割されており、チャキタクラ(Chaquitaclla)と呼ばれる伝統的な鍬(くわ)を使用して、ポテトの民が手で耕すのだ。
























クエンコ村に歩いて戻り、村の経済状態に関して把握しようと試みた。バラリオは「貨幣」というものをよくわかっていない、パタバンバまでじゃがいもの袋をかついで運び、カブと交換する、あるいはじゃがいもを売って、砂糖や衣服を買い求めるのだ。

村では石材を利用することもある。石材はあたりで潤沢に横たわっており、地元の石工たちに好んで用いられる品質を有するからだ。しかしカカコーリョ村などと比較すると、あまりにも遠い場所にあるため、商品価値はあまり期待できない。

村を通って、水路沿いにある小さな集落を尋ねる。殆どの家ではじゃがいもの以外では、クイ(豚)や乳牛のためのパスト(鮮やかな緑の牧草)を育て、アッバス(大豆の一種)と、アブラナ種(菜の花の一種)を育てている。

ポテトの民は遠くからはおおむね大丈夫そうに見えるが、実際に近づいて確認してみると、黄色い葉や乾燥した茎など様々な兆候が露呈している。ピサックなどの農家と異なり、ポテトの民は30ソルほど出せば購入できるじゃがいもの茎の腐敗を防止するための殺菌剤を買うことができない。バラリオはもっと大規模な農地に適したじゃがいもは、大きな根茎を実らせるが、ここでは、アンデス特有のモラヤ(白)とチュンヨ(黒)の種、比較的こぶりな根茎を実らせるものが耕作に適しているそうだ。高山での6月と7月の零度を下回る気候で、これらのじゃがいもは天然のフリーズドライ保存される。.
















村に戻ると、我々が提供した配給食糧や古着を、村民たちはたいへん喜んでくれた。子供たちへの学用品をまた持参する機会はこの先あるだろうか。

もちろんだ。僕らは必ずここに戻ってくる。そしてサントゥーサの夫に、もう少し「とある実験的な試み」に関して話がしたい。彼は今ウルバンバにいて、週単位で日雇いの仕事に来ることもある。

この地を去る前に、サントゥーサの台所で撮影する許可を得た。ここは女性の縄張りでもあるから、若干デリカシーが必要だ。でも8人の家族が暮らすというこの家で、ほんの一瞬のスマイルを見せてくれればそれでいい。 戸棚にあるのは0.5キロの塩、そして同じくらいの小麦粉。じゃがいもは家の裏の日陰で保存されているが、想像するにほんのわずかな量に違いない。
















シワ村までは到達することができなかった。道の途上の最後の村であり、まだ村沿いに水路が流れている。来週に訪問してみようと思う。

まだカニワの種をどこで入手したらいいか、見当がついていない。クスコでは入手できないそうだ。アルティプラーノ(Altiplano)のプノ(Puno)では確実に入手できるようだ。シクアニ・・・も。種植えは8月の予定だ。

写真はチャカカッタ山からピサックを見下ろす眺め。ちょうど左側に僕の自宅がある。リンリ山(Apu Linli)では、たくさんの土砂災害の爪あとが見られる。

クエンコ村:ポテトの民 vol.3



僕らはパタバンバへドライブを続けた。パッチワークのような鮮やかな緑の草原がこの地域を取り囲んでいて、見たところ比較的豊かな土地だ。大洪水の被害からも難を逃れている。ここパタバンバはクエンコ(Q'enko)からはたった5km離れているだけなのに、標高的な適合性においても、キヌアの栽培に適している。インカでは収穫期の最初の種を母なる穀物(chisiya mama)と呼び、壮麗な式典の儀式において黄金の鍬(くわ)で種を植えるのだ。

ここパタバンバでは目を奪う虹のような色彩とともに、収穫が近いことを知らせている。これは大規模農場形式では決して見ることのできない美しさなのだ。半自然農法に近いからこそ、作物はそれぞれのペースで熟していく。農耕機械での収穫には不向きな作物なのだ。

クエンコは(その豊かなパタバンバから)たった5kmしか離れていないのに、何故キヌアが育たないのか? 科学的な調査を実施したわけではないのだが、標高が高く、収穫時に機械を併用でき、不毛な土地でも育つ作物がここでは必要だ。このテーマに関してはもう少し研究する必要がある。これに関して、提案や、意見、関連ウェブサイトのリンク、ヒントなどあったらどんどん僕に寄せて頂きたい。このような提案は大歓迎だ。



















ようやくクエンコ村に到着した。標高3,800m。バラリオと2人で、すでに息が苦しくなっていることからもうなずける。道端で、この村との連絡窓口を担ってくれているバラリオの姉妹、サントゥーサ・チュアッカとサンタ・マリアの5人の子供たちのうち、3人の若い紳士淑女に遭遇した。そして次にバラリオが「僕にとっては2番目のお母さんだよ」という女性を紹介してくれた。この土地に生まれ育った彼は、5歳で生みの母親と死別しているのだ。それ以降クオヤにこの叔母と移り住むことになったのだ。生まれ育ったこの土地に帰ってくるのは、彼にとっても3年半ぶりのこと・・・。それくらいの時間を隔てた今である。今回の訪問はどちらかと言えばさらっとした兄弟や姉妹たちとの再会となった。

山間部に住む民の多くは、あまり感情を表に出さない。日々生き抜くのが最優先の彼らにとっては、感情的なやり取りは二の次なのだ。配給物資を卸し、被害状況の調査を行う。「被害」というに十分な程度の倒壊した家屋を十分確認することができ、いくつか写真撮影も行った。日干し煉瓦に空いた穴から、居間に小川のような状態で水が流れている家屋がある。ある人々に話しも聞いたし、女性たちや、畑にいた男性たちからも、聞いたことのあるような話が出てくる。じゃがいも作物への壊滅的影響や、「食糧が必要です」というフレーズは、もはや「合唱」のように鳴り響いている。

2008年は国連では「国際イモ年」が実施されており、世界各国から華々しいセレブのシェフたちが、リマで料理の腕を競った。もちろん、ここクエンコでは、その味の一部を知る由も無い。

























これは彼らにとってのいつもの昼食。朝も夕飯も変わることの無い、クエンコスタイルのふかしたジャガイモだ。

救援物資を配給したことへ、彼らは感謝を表してくれた。

「僕だけからのものでは無いんです。この星の異なる国々のたくさんの友人たち。(最近では友人のそのまた友人たち)が、僕を信用してくれて、寄付してくださったんです。寄付していただいた$20は、ここでは$100の価値となります。決して皆さんにお会いした訳でも無いのに、心からの善意を寄せてくれているんです。」そして続けた、「カナダや日本、米国やヨーロッパ、南アフリカやオーストラリア、そしてペルー国内からも・・・これらまったく無名の人々による支援なんですよ。ある方々は、この地を訪れた方々。そしてまだあなた方に会ってもいないけれど、あなた方の家族や親戚の方々の生き様に触れ、(僕も同じだけれど)その気高い精神性と、忍耐強さ、そして寛容さに心を動かされたんです」

アンデスの村々を歩いてみれば、たとえ豊作の年であったとしても人々が相対的に栄養不足状態であることがわかる。その彼らが今直面しているのは、本当に深刻な食糧難なのだ。にもかかわらず、訪問客を必死でもてなそうとしている・・・。人類は今、何が本当に優先されるべきなのかを、改めて問い直す時期に来ているのではないだろうか。

2010年6月6日日曜日

Paul Temple氏からの日本の友人の皆様へ part 2

週末に第3回目の送金をペルーのPaul Temple氏へ実施したばかりでした。やはりホームページというのは不思議なもので、日本各地様々な場所から、それぞれの方々がそれぞれの想いを胸に、参加して頂いていることがひしひしと伝わってくるものでした。

早速Paul Templeさんから以下お便りを頂きました。1人1人ができることは決して小さくはない。「大海の一滴」となることが、確かな喜びをもたらすことを、なにかこうまざまざと胸に伝えてくれる・・・そんなバイブレーションを文面からひしひしと感じることができます。

うれしいですね。

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親愛なる日本の友人のみなさまへ

当救援基金への先日の送金を心から感謝申し上げます。今日も晴天に恵まれ、僕はちょうどクスコから戻ってきたところです。というのもカーラさんとその娘さんのターニャ(彼女は生まれつき指がありません)に会うためでした。彼女が適切な治療を受ける必要があるかを確認する必要があったのです。ですから今回の日本の皆様からの送金は実にタイムリーでした。とても有効に使わせて頂くことができました。

日本の友人のみなさまもお変わりないことと思います。(先日ジョンンクレイグとSkypeで話をしたばかりです。)

皆様に喜びと祝福がありますように

ポール・テンプル

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(原文)

Hola all friends in Japan

many thanks for your latest donation to the Relief Fund.

It is sunny again today, and I have just returned from Cusco yesterday, when I met Carla and her one-year daughter Tanya, who has no fingers on one hand ... so we are going ahead to see if we can get her some medical treatment - and so your contribution from friends in Japan will be put to very good use.

I hope all the friends in Japan are well (I spoke with John Craig the other day over Skype).

Wishing you all much joy.
Blessings.
Paul

2010年6月3日木曜日

クエンコ村:ポテトの民 vol.2

ラロと僕はよく「救援物資の公平な配給方法」について議論をする。というのも、盗人たちが「村全体の利益のために・・・」という名目でたびたびこれら救援物資を掠め取るのを把握しているからだ。カカコーリョ村の村民たちもこの問題について指摘しており、一度代表者を罷免して、再選人した経緯があるからだ。

バラリオはよく、隣接するコロラヤン村について、政府またはNGOの援助を「うまく」引き寄せていることを話していた。ではどうしてカカコーリョ村は援助の申請をしないのだろうか?

「どう申請すればいいのか?どうやって手続きを行い、申請書を記入し、誰に相談すべきかを知らないからだ。」

では、どうしてコロラヤン村などの近隣の村々と協力して、その任に当たらないのだろうか?僕の理解する範囲から言わせてもらえばこうだ。それは彼らはつまりキックバック(リベート)を受け取っているということ。そのような腐敗した仕組みは第三世界ではある意味普遍的なものであるし、僕はそのような事象からなるべく阻害されないようにと心を配ってきた。僕が支援に携わろうとする動機は、このような仕組みを支えるためでは無い。僕の心眼に写る、目のくりくりした3歳の女の子は、自動車タイヤから作られたサンダルを履きながら泥だらけの道をふらふらと歩いていくのだ。

ラロは食糧配給に関する、「ペース」に関して強調していた。これから2-4ヶ月にわたり、天候と収穫物の状況に応じながら、最適配分する必要がある。そして話は彼自身の状況に関して、どう対処していくべきか・・・に移っていった。彼がこの救援活動を行い、自身の家庭生活を再建するなかで、僕は彼に最低限の夜露をしのぐ場所を、ここピサックで提供する用意があると申し出たのだった。

翌朝僕はバラリオを食糧物資の買出しのためにクスコへと派遣した。クオラオ(Qorao)で落ち合い、そこからケンコー(Q'enko)へは以下写真のカロラヤンのテント村を越えて、山間のジクザクな道を辿って約1時間ほどで到着する。 このテント村では、食糧配給を受けるために、半ば強制的に移住を余儀なくさせられた人もいるとの噂を聞いた。































山の尾根を越えると、1000mほど直下に「聖なる谷」の壮大な眺望が拡がってくる。タライの下流にあるリオ・ウィルカマユにまで広範囲でトウモロコシ耕地にダメージが拡がっているのが分かる。(この写真の直下に見えているのはクオヤ(Qoya)を見下ろしている。 これらは「カンペシーノ」と呼ばれる小規模農家の農作地帯では無い。「ハシエンダ」と呼ばれる大規模の農作地帯であり、95年の農業改革以来、地主を失った土地なのだ。

バラリオとはいつもこの高山地域における暮らしの質をどう向上させられるか絶えず議論を交わしている。彼は僕にとっての目であり耳である。この都会から離れた、比較的保守的で、ケチュア部族の伝統に準じて生活している彼らにとって、先住民たちはエキストラネロ(外国人たち)に対してはあまり心を開くことは無い。過去500年にわたり自らの祖先の地が、スペイン帝国の支配と蹂躙を受け、近年の部族長の政治的支配を経てきた彼らにとっては無理の無い話だ。

僕は今、この高山地域におけるキヌアとキウィチャの農耕の可能性に関して調査しているところだ。バラリオと2km先の谷の向こう側からやって来たタクシーの運転手は、地元のケチュア語で協議をし、バラリオがそれをスペイン語で伝えてくれる。この辺の気候は寒すぎる。干ばつと霜への耐性があるカニワはどうなのだろうか?など。

人々は明確な答えを持たない。でも本当はわかっているのだ。そして僕らはその答えをいかに彼らから導き出せるのかに、大変な興味を持っている。「いかにしてこの貧しいアンデスの仲間たちに、これらの土着のスーパー穀物を再導入する余地が無いものだろうか?」と。サアグと呼ばれるヒマラヤからもたらされた発育の良いマスタードの葉とか、僕の家庭菜園から採れた野菜の種もその可能性を秘めている。

既存の救援活動は今年1月の記録的雨量による水害被害に対する取り組みである。本当に緊急ですべては切実は必要に基づいた活動である。けれど長期的にはどのようにあるべきなんだろうか?これら先住民の民たちを、カニワ(Kaniwa)などの伝統的な古来の高山農作物を再導入することは、僕の植物学、園芸学、持続可能性、そして自己受粉可能な植物への関心などにも合致する。であれば、僕らが今回取り組んできた食糧支援、衣料支援などの救援活動はクエンコ村の住民たちの受容と協力体制に基づいて、長期的な視点での実験的な構想を実施することが可能になるだろう。これは大きなお役目だ。そして希望がある。

クエンコ村:ポテトの民 vol.1

2010年3月22日

クエンコ(Q’enko)は、チャカカッタ山の稜線上にあり、コリコチャレイクの真下に位置する、標高3,810mに存在する高地の村だ。現在63件の家屋に70世帯が在住している。丁度、農耕限界点の上限に位置しており、「カンペシーノ」(農民)たちはアンデス高地の牧草地帯で牧畜を営みながら、ポテト(じゃがいも)を育てている。この土地から彼らが生計を立てる唯一の方法だ。

クエンコは、ちょうど決壊したダムの一番直下に位置する村であり、泥水や巨石、砂利の混ざった鉄砲水の発生源となった場所でもあり、下流にある村々、コロラヤン(Kollorayan)村、カカコーリョ村、コチャワシ(Cochahuasi)村、ワンカレ(Huancalle)村などはその直撃を受け、チャカカッタ山の裾野にあるタライ村は、その鉄砲水で壊滅的な被害を受けたのだった。

ラロは僕たちが訪問する前にすでにこの地を訪れており、タライ村の市議会議員としても選任され、二人の娘さんがいる、村の皆に信頼される良き父親だ。村人たちの相談窓口としては最高の人物であろう。 僕のお気に入りのタクシー運転手は、ちょっとしたパートタイムの政治家になってしまったようだ。彼らの田畑から放し飼いの鶏の卵や、採れたてのトウモロコシ(チョコロ)などの収穫物を村人たちに分配しており、この緊急の状況における最前線で活躍してくれている。彼自身もこの鉄砲水で被災し、最近建築したばかりの新居や、父方の家系の親戚たちの家々は、他の80%の世帯同様倒壊してしまったのだ。

僕が今ここでこのブログを書いて座っている席から眺めることのできる、「コレジオ村」ではテント村が飛躍的に増加している状況だ。彼らはもうそこに3週間以上暮らしている。僕もこの災害に直面して、正直どうして良いやら戸惑うことがあるけれども、そんなのは、彼らの苦悩に比べたらスモールポテト(小さなこと)だ。

ラロはようやく時間を取ってくれるようになり、状況も少し落ち着いてきたようだ。ここでの被災状況に関して、市議会の議員たちの視点でたっぷりと議論する時間を持つことができた。実際に政府から供出されている食糧に関する配給状況は決して十分なものとは言えず、また今週の後半にはカカコーリョ村の友人たちから聞いたことではあるが、4袋の米と、1袋の砂糖を受け取っただけだったそうだ。800人以上が住む村人たちへの配給と呼ぶにはあまりに、格好だけのものになっている。ましてや、遠隔地にあるクエンコ村などはご多分に漏れず、彼らは何一つ受け取っていない。クオヤの配給センターからは、物資はちゃんと出荷されているにもかかわらず・・・だ。

大統領のアラン・ガルシアが今日クスコに飛んだ。クスコに通じるハイワー途上にあるルクレからはヘリで被災地へと向う。結果、殆どのNGOからの援助の恩恵を受けている場所だ。ある友人たちは、そこで古着屋ビジネスを始め、活況を呈している。自分たちの「必要以上」のものを受け取っていることは間違いない。バラテオにある市場でエルモーレが古着を仕入れてきており、それらをここクエンコ村に届ける予定なのだが、その際の古着屋の訪問者たちが口々に話していた。

ガルシア大統領は、農耕の先住民たちが済む村々ではかなりの支持率がある。ペルーのGoggleのニュースでは、ペルー通貨であるソルを国際市場に統合する準備として、ペルーでの安価な労働力を背景に、ペルーの貴重な鉱物資源を多くの海外資本の資源開発業者へと売り渡そうとしている。ケチュアの民への畏敬の念を持つこともなく、資源開発業者たちは認可を受け次第、掘削を開始し、この土地の聖なる水を、採取後の廃石を洗浄するのに用いるのだ。

ラロもガルシアがヘリから実際に降りて視察したのかどうかは知らない(農民たちのデモ運動によって昨年は訪問がキャンセルされた経緯がある)そうだが、65億円相当を災害復興支援の費用として緊急拠出することになったそうだ。
















ラロは「付近の村々どこにおいても、物資は行き渡っていない。カカコーリョ村では事実、4袋の配給しか受けていない。」と言った。これら多くの基金はインフラ整備にまわされることは間違い無い。国道、ピサックの橋の修復など・・・。ありがとう・・・と言っておくべきか・・・。

そして何が起こることを期待しているのか?そうだ。バスがまたたくさんの観光客とともにこの土地を訪れることだろう。僕も協力して、カカコーリョ村の採石所から、大きな岩でも運んでこようか?