
僕らはパタバンバへドライブを続けた。パッチワークのような鮮やかな緑の草原がこの地域を取り囲んでいて、見たところ比較的豊かな土地だ。大洪水の被害からも難を逃れている。ここパタバンバはクエンコ(Q'enko)からはたった5km離れているだけなのに、標高的な適合性においても、キヌアの栽培に適している。インカでは収穫期の最初の種を母なる穀物(chisiya mama)と呼び、壮麗な式典の儀式において黄金の鍬(くわ)で種を植えるのだ。
ここパタバンバでは目を奪う虹のような色彩とともに、収穫が近いことを知らせている。これは大規模農場形式では決して見ることのできない美しさなのだ。半自然農法に近いからこそ、作物はそれぞれのペースで熟していく。農耕機械での収穫には不向きな作物なのだ。
クエンコは(その豊かなパタバンバから)たった5kmしか離れていないのに、何故キヌアが育たないのか? 科学的な調査を実施したわけではないのだが、標高が高く、収穫時に機械を併用でき、不毛な土地でも育つ作物がここでは必要だ。このテーマに関してはもう少し研究する必要がある。これに関して、提案や、意見、関連ウェブサイトのリンク、ヒントなどあったらどんどん僕に寄せて頂きたい。このような提案は大歓迎だ。

ようやくクエンコ村に到着した。標高3,800m。バラリオと2人で、すでに息が苦しくなっていることからもうなずける。道端で、この村との連絡窓口を担ってくれているバラリオの姉妹、サントゥーサ・チュアッカとサンタ・マリアの5人の子供たちのうち、3人の若い紳士淑女に遭遇した。そして次にバラリオが「僕にとっては2番目のお母さんだよ」という女性を紹介してくれた。この土地に生まれ育った彼は、5歳で生みの母親と死別しているのだ。それ以降クオヤにこの叔母と移り住むことになったのだ。生まれ育ったこの土地に帰ってくるのは、彼にとっても3年半ぶりのこと・・・。それくらいの時間を隔てた今である。今回の訪問はどちらかと言えばさらっとした兄弟や姉妹たちとの再会となった。
山間部に住む民の多くは、あまり感情を表に出さない。日々生き抜くのが最優先の彼らにとっては、感情的なやり取りは二の次なのだ。配給物資を卸し、被害状況の調査を行う。「被害」というに十分な程度の倒壊した家屋を十分確認することができ、いくつか写真撮影も行った。日干し煉瓦に空いた穴から、居間に小川のような状態で水が流れている家屋がある。ある人々に話しも聞いたし、女性たちや、畑にいた男性たちからも、聞いたことのあるような話が出てくる。じゃがいも作物への壊滅的影響や、「食糧が必要です」というフレーズは、もはや「合唱」のように鳴り響いている。
2008年は国連では「国際イモ年」が実施されており、世界各国から華々しいセレブのシェフたちが、リマで料理の腕を競った。もちろん、ここクエンコでは、その味の一部を知る由も無い。

これは彼らにとってのいつもの昼食。朝も夕飯も変わることの無い、クエンコスタイルのふかしたジャガイモだ。
救援物資を配給したことへ、彼らは感謝を表してくれた。
「僕だけからのものでは無いんです。この星の異なる国々のたくさんの友人たち。(最近では友人のそのまた友人たち)が、僕を信用してくれて、寄付してくださったんです。寄付していただいた$20は、ここでは$100の価値となります。決して皆さんにお会いした訳でも無いのに、心からの善意を寄せてくれているんです。」そして続けた、「カナダや日本、米国やヨーロッパ、南アフリカやオーストラリア、そしてペルー国内からも・・・これらまったく無名の人々による支援なんですよ。ある方々は、この地を訪れた方々。そしてまだあなた方に会ってもいないけれど、あなた方の家族や親戚の方々の生き様に触れ、(僕も同じだけれど)その気高い精神性と、忍耐強さ、そして寛容さに心を動かされたんです」
アンデスの村々を歩いてみれば、たとえ豊作の年であったとしても人々が相対的に栄養不足状態であることがわかる。その彼らが今直面しているのは、本当に深刻な食糧難なのだ。にもかかわらず、訪問客を必死でもてなそうとしている・・・。人類は今、何が本当に優先されるべきなのかを、改めて問い直す時期に来ているのではないだろうか。
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