カカコーリョ村への帰還
2010年3月16日
先週日曜日の午後、一週間続いた日差しの魔法のおかげで、天空を覆っていた雲が抜け、嵐のさなかの暗雲だけでは無く、青みがかった紫色の雲の入り混じる夕日が差し込む。それもつかの間、また天からは数分のうちに豪雨が降り始め、家のすぐ裏の水路が激しい濁流と化した。すべての家々のバルコニーは浸水状態であり、警戒水域にある。
幸いなことに、豪雨の中には小石ほどのあられが入り混じっていて、すぐに溶けてしまう。でもピサックからクスコへの道は一時的ではあるけれどもまた閉鎖されてしまった。エルモール(El Molle)の外の道沿いに、斜面に横並びに建てられた家々を脅かしながら、泥流は激しく下流に流れていく。カカコーリョ村の人々は既に今年の収穫量への被害予測を立て始めている。美しい日没の風景が、少しの慰めを与えてくれた。
実は一週間前に、カカコーリョを訪れた際に、30世帯ほどが住む家を失ったのだけれど、そのような悲痛な状況にもかかわらず、住人たちは一切不平をもらすのでもなく、実直にこの災害に立ち向かおうとしている姿勢が感じ取れた。なんという忍耐力なのだろう。僕は彼らのこの強い精神力に腹の底から大きな衝撃を受け、「どんなことでもいいから彼らにとって必要な支援を申し出たい・・・」と決意を新たにした。
翌朝また食糧を運びにバラリオと村へ向った。そして午後にはブログ記事の投稿を行った。それは僕の親交のある少人数の友人たちとシャーマンが執り行う儀式に使用する「聖なる植物」の研究に関して、シェアするために起こしたブログだった。けれど急遽そのページは現在発生している「災害報告」へと形を変え、多くの暖かなコメントによって、個人からの支援の申し出や、直接的な支援のための要請といった目的に使用されることとなった。反響は本当に心温まるもので、勇気付けるコメントや資金的な支援の申し出に感謝の言葉しか見つからない。現在6000ドルほどがすでに寄付されており、送金中のものもあわせると約7000ドルに達する。前回告知させていただいた、送金方法詳細に関しては殆どの人々には必要十分だったようだが、一部の支援者は銀行の窓口で「ペルーの実際の住所を記載してくれ」と要請されたのだそうだ。パタカーレから端を発する、この蛇のようにうねったアンデン(Anden)という名の棚田の等高線に沿った古道、アンデスという言葉の語源はまさにこの棚田(アンデン)に由来するのだが、二本目の水路に沿って進み、岩壁を左側に進むとそう、よくいらっしゃいました、ここ「プーマクルコ(Pumacurco)」にご到着。
「Señor Paulo, the gringo、外国人のセニョールポールはいるかい?」
そう尋ねたらこのピサックプエブロから歩いて15分ほどの小規模の農作地帯では、誰もが僕の棲家を指差すことができる。だけどそんな情報、一体銀行がどうして必要とするのか。なのでこのブログの終わりに、郵送先住所、カナダ国内用のInteracを利用した電子送金方法、それからPayPal(注:日本以外の地域のみ)の活用方法についての情報を記載しておこう。(カカコーリョ村への帰還 vol.4に記載されています)
確か4日前のことだったか、最初の食糧物資の配送を行った後のことだ。それがどのように使われたのかを聞いた。なんと「村全体で祝宴を催したというのだ!」もちろんそこには食前酒やオードブルといったご馳走は並んではいるはずもなく、一杯のご飯と、薄味のスープが配給されただけだ。一緒に喜んでいいものか、泣くべきなのか分からなくなる。僕らにとってこの800人ほどのこの村民全員の人々を養うことは、ほぼ不可能に近い。けれどもこの村の人々の気高い精神性、そして「アイニ」という概念に表される相互扶助の精神、互いに手を取り合い支えあう姿は、このケチュア文化の独立性とアイデンティティが保たれる要因であったことは疑いようがない。
日干し煉瓦の接着剤として使用されるセパジャ(thepaja)という名の高山草があるのだが、これを収穫する頃にまで覚えておきたいと思った。この出来事は実際に被災した住民と、そうでない住民とはほぼ紙一重であったということ、更に村民ほぼ全員が一致して「食糧の供給」を必要としており、村の主だった農業従事者たちは食糧の自給率が著しく低下していること、そしてこの高地ではトウモロコシの収穫は2ヶ月を待たねばならない、そして長引く天候不順により収穫量そのものに大きなダメージを受けていることを挙げていた。減産量は60%に達する見通しで、購入することができる者はわずかであり、村民の生存可能性そのものが大きく問われている状況だ。私はここで苦渋の選択に迫られた。食糧の配給を家を失った30世帯に絞り込むというもの。とてもセンシティブな問題だ。文化的な慣例などを十分に考慮しながらこの状況に対処していくことが求められている。
幸いなことに、豪雨の中には小石ほどのあられが入り混じっていて、すぐに溶けてしまう。でもピサックからクスコへの道は一時的ではあるけれどもまた閉鎖されてしまった。エルモール(El Molle)の外の道沿いに、斜面に横並びに建てられた家々を脅かしながら、泥流は激しく下流に流れていく。カカコーリョ村の人々は既に今年の収穫量への被害予測を立て始めている。美しい日没の風景が、少しの慰めを与えてくれた。
実は一週間前に、カカコーリョを訪れた際に、30世帯ほどが住む家を失ったのだけれど、そのような悲痛な状況にもかかわらず、住人たちは一切不平をもらすのでもなく、実直にこの災害に立ち向かおうとしている姿勢が感じ取れた。なんという忍耐力なのだろう。僕は彼らのこの強い精神力に腹の底から大きな衝撃を受け、「どんなことでもいいから彼らにとって必要な支援を申し出たい・・・」と決意を新たにした。
翌朝また食糧を運びにバラリオと村へ向った。そして午後にはブログ記事の投稿を行った。それは僕の親交のある少人数の友人たちとシャーマンが執り行う儀式に使用する「聖なる植物」の研究に関して、シェアするために起こしたブログだった。けれど急遽そのページは現在発生している「災害報告」へと形を変え、多くの暖かなコメントによって、個人からの支援の申し出や、直接的な支援のための要請といった目的に使用されることとなった。反響は本当に心温まるもので、勇気付けるコメントや資金的な支援の申し出に感謝の言葉しか見つからない。現在6000ドルほどがすでに寄付されており、送金中のものもあわせると約7000ドルに達する。前回告知させていただいた、送金方法詳細に関しては殆どの人々には必要十分だったようだが、一部の支援者は銀行の窓口で「ペルーの実際の住所を記載してくれ」と要請されたのだそうだ。パタカーレから端を発する、この蛇のようにうねったアンデン(Anden)という名の棚田の等高線に沿った古道、アンデスという言葉の語源はまさにこの棚田(アンデン)に由来するのだが、二本目の水路に沿って進み、岩壁を左側に進むとそう、よくいらっしゃいました、ここ「プーマクルコ(Pumacurco)」にご到着。
「Señor Paulo, the gringo、外国人のセニョールポールはいるかい?」
そう尋ねたらこのピサックプエブロから歩いて15分ほどの小規模の農作地帯では、誰もが僕の棲家を指差すことができる。だけどそんな情報、一体銀行がどうして必要とするのか。なのでこのブログの終わりに、郵送先住所、カナダ国内用のInteracを利用した電子送金方法、それからPayPal(注:日本以外の地域のみ)の活用方法についての情報を記載しておこう。(カカコーリョ村への帰還 vol.4に記載されています)
確か4日前のことだったか、最初の食糧物資の配送を行った後のことだ。それがどのように使われたのかを聞いた。なんと「村全体で祝宴を催したというのだ!」もちろんそこには食前酒やオードブルといったご馳走は並んではいるはずもなく、一杯のご飯と、薄味のスープが配給されただけだ。一緒に喜んでいいものか、泣くべきなのか分からなくなる。僕らにとってこの800人ほどのこの村民全員の人々を養うことは、ほぼ不可能に近い。けれどもこの村の人々の気高い精神性、そして「アイニ」という概念に表される相互扶助の精神、互いに手を取り合い支えあう姿は、このケチュア文化の独立性とアイデンティティが保たれる要因であったことは疑いようがない。
日干し煉瓦の接着剤として使用されるセパジャ(thepaja)という名の高山草があるのだが、これを収穫する頃にまで覚えておきたいと思った。この出来事は実際に被災した住民と、そうでない住民とはほぼ紙一重であったということ、更に村民ほぼ全員が一致して「食糧の供給」を必要としており、村の主だった農業従事者たちは食糧の自給率が著しく低下していること、そしてこの高地ではトウモロコシの収穫は2ヶ月を待たねばならない、そして長引く天候不順により収穫量そのものに大きなダメージを受けていることを挙げていた。減産量は60%に達する見通しで、購入することができる者はわずかであり、村民の生存可能性そのものが大きく問われている状況だ。私はここで苦渋の選択に迫られた。食糧の配給を家を失った30世帯に絞り込むというもの。とてもセンシティブな問題だ。文化的な慣例などを十分に考慮しながらこの状況に対処していくことが求められている。
2回目の食糧配給は更にこのような意図を明確にして実施されたのだった。そして実際に家を失った人々たちに配給された。この食糧配給と学用品の支給に対して、市役所の人々がどのような対応をとったのかを思い出すのは胸の痛むことだ。彼らはなんと20ドル相当のオフィス用品と、ウェリントン社製ブーツを私たちに提供してきたのだ。それはわずかな割合であるかもしれない。しかし最も支援が必要とされているさなかにあって、(わたしたちの必要のために)資源が割かれるというのは耐え難い事実だ。この事実が誰かの善意を喚起するきっかけになればと思う。彼らは単に役所の番人として、供給物資の対等な交換が実施されているかどうかを監視しているだけなのだ。それが慣例としてまかり通っているのは事実のようだ。わたしはここペルーで従事していることに改めて気づかされた。この困難な状況に際して、食糧供給連鎖の一端で、略奪者たちが自分の利益のためにこの状況を利用したりすることが無いよう、見守ることにエネルギーを注ぐ必要があることを。
事始めとしてはまずまずと言ったところか。
事始めとしてはまずまずと言ったところか。
今週は午後になると激しい風が吹いてくることが多い。彼らは雨季の終わりを告げるサインだと言う。これが単なる願掛けではなくて、彼らの言うとおりだといいのだが。
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